東岸居士の墓とともに | |
読み方 | しんめい-しゃ(とうがんこじ) |
所在地 | 名古屋市西区南堀越1丁目8-20 地図 |
創建年 | 不明 |
旧社格・等級等 | 不明 |
祭神 | 不明 |
アクセス | 地下鉄鶴舞線「浄心駅」から徒歩約22分 駐車場 なし |
その他 | |
オススメ度 | * |
「東岸居士」と染められた紅白の幟がたくさん立っている敷地の中にある小さな神社。木製の細い鳥居の額に神明社とある。敷地の中には東岸公民館も入っている。 この神明社に関してはまったく情報がなく、詳しいことは何も分からない。 東岸居士は鎌倉時代の僧で、実在したとも伝説の人ともされる。同名の作品を世阿弥が作っているので、それで知っているという人もいると思う。 説明板の内容を写すとこうだ。 「東岸居士(~1283)、名は玄壽、東山雲居寺の説教僧。出家もせず僧衣も着用せず妻帯のまま、羯鼓(かっこ)を打ち竹の編木(ささら)をすり念仏踊りをしながら、馬で諸国を説法して回った。 たまたま、当地・堀越に滞在した折、往生をとげた。村人は、その徳を敬い弔ったという。今も「いぼ神様」として人々の信仰を集めている。毎年八月十三日に盆供養が行われている。 「尾張志」等によれば、東岸の像が近くの宝琳寺にあったという。この墓碑は、以前、東レ(株)愛知工場の中にあったのを移したものである」 ここでは実在した鎌倉時代後期の居士で、諸国を巡っている途中の尾張国の堀越村で亡くなったので村人たちが葬ったということになっている。 居士というのは出家しないまま俗人として人々に説教をして回る修行者のことをいう。法衣も身につけず、頭も剃らず、妻もいたという。 東山雲居寺というのは京都の東山にあった天台宗の寺で、廃寺になった跡地にねねが秀吉を弔うために高台寺(web)を建てた。高台寺のwebサイトの写真は私がやられてもらったので、こんなところで意外なつながりができた。 寶琳寺(地図)は上堀越に現存している。 東岸居士の墓は東レ愛知工場がある場所にあったようだ。工場ができたのは1941年(昭和16年)なので、そのときに移されたのだろう。 別の話として、寶琳寺にあったものを国道22号線の拡張にともなってこの地に移されたというのもある。 『尾張志』はもう少し詳しく書いている。 「東岸居士の旧跡 堀越村の法琳寺の境内にあり居士は俗にいふ説教者にて自然居士の弟子なり自然東岸の両居士は世俗猿楽のうらひものにもつくりて世に名高き隠者なりかくてこの地に住みし由いひ伝え居士が乗馬の像を此寺に安置し又近き田面の溝川に渡したるを東岸居士の橋と呼ふ中むかしの頃より三井寺の定圓安居院の隆憲等が流をくみて妻帯して経を唄誦する僧を説教者といひ自然東岸など羯鼓をうち編木(ササラ)をすり舞をなして唱経す近き小田井村のうちにささらすりといふものありて戸籍の外の遊民とすそれ等が祖先居士を尊み其像を安置したるものなるよし」 「ささらもの」などさまざまな呼ばれ方をする人々を雑種賎民(ざっしゅせんみん)といっていた。定住せず、戸籍にも入っていない人たちだ。小田井村のささらすりというのもそういう人たちのことで、小田井人足などとも呼ばれていた。そういう人々が自分たちのルーツともいえる居士を神として祀るといったようなこともあったようだ。 東岸居士の墓をいぼ神さまとして信仰したというのもそういったことだったと思われる。 唄ったり舞ったりしながら説教をして全国をまわった人たちが、やがて歌舞伎などを行う芸能集団になっていった。 世阿弥の『東岸居士』は、東国の男が京都の清水寺に向かう途中で東岸居士と会い、東岸居士が舞を舞って仏法帰依をすすめるといった内容という。 自然居士は実在したようなので、東岸居士もいたのではないかと思う。東岸居士を名乗る人間はひとりではなかったかもしれない。 堀越の近くには東岸町など、東岸とつく地名が残っている。 『尾張名所図会』(1844年)は東岸居士が尾張に来たことに対して懐疑的だ。 「東岸居士舊跡 堀越村寶琳寺境内にあり。又其南の田圃の溝川に渡せる小橋を東岸居士の橋と云ふ。『謡曲拾葉抄』等に居士の事見えたれど、尾張に来し事更に見えす。あるひはむかしの街道にして、東岸小路といひしよしいへど、定かならず。いかにして居士の古跡を存するや、いまだ詳なる事を得ず」 神明社がいつ建ったのかはまったく分からない。東岸居士の墓碑が移されたのが1941年頃として、そのときはすでにここにあったのか、もしくは後から神明社もここに移されたのだろうか。 作成日 2018.5.5(最終更新日 2019.1.12) | |
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