かつての六が池、今の調整池のほとりにある小さな社。猿田彦神を祀る猿田彦社とのことだ。
江戸時代に如意村(にょいむら)だったこのあたりは、明治に入っても手付かずの荒れた山林で農地に向かなかったようだ。 明治10年代になってこの地に新田を作ろうということになり、苦労して用水を引いて水田を作っていった。六が池はそのときに作られた溜め池だった。 作られた当時はかなり大きな溜め池で、きれいな水をたたえていたという。今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、その頃の状況が見てとれる。 池のほとりに、新田開発が上手くいくようにという願いを込めて猿田彦を祀ったのが、この猿田彦社なのだという。 戦後の宅地整理によって周辺に住宅が増え、六が池は大幅に縮小されて調整池になった。大雨の時にここに雨を集めて洪水を防ぐのが目的だ。 池の横を流れる生棚川(なまたながわ)は、かつての地名の如意村字生棚から名づけられた川で、名古屋空港の排水や如意申川の水を集めて南下し、調整池を通って新地蔵川に流れ込んでいる。
如意ではかつて虫送りが行われていたという。 虫送りというのは、稲が育った夏に、農作物に虫がつかないように祈り、豊作を祈願するもので、日本の農村ではどこでも当たり前のように行われていた昔ながらの風習だ。 如意では大井神社(地図)で神職が祈願をしたあと、たいまつに火を灯して鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らしながら六が池の猿田彦社まで歩き、猿田彦社でもう一度祈願をしたそうだ。 かつて苦労して作った田んぼも今はほとんどなくなり、如意もすっかり住宅地になった。もはや虫送りをする意味もなくなってしまった。名古屋で虫送りの風習が残っているところは少ない。 誰も気づきもしないような小さな社にも歴史があり、役割がある。田んぼも六が池も虫送りはなくなってしまった今、せめてこの猿田彦社だけは守っていってほしいと願わずにはいられない。
作成日 2018.3.17(最終更新日 2019.1.11)
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