河口付近で平行して流れる庄内川と新川を渡った西側は海東郡になる。 藤前の地名は藤高前新田から来ていて、藤高前新田は北の藤高新田の南ということでそう呼ばれた。藤高新田から見れば前ということだ。 藤高前新田は江戸時代後期の1822年(文政5年)に、名古屋大船町の伊藤喜左衛門が開発した。 完成後は尾張藩の大代官が支配する蔵入地(くらいりち/直轄地)となった。
神社は藤高前新田の氏神として勧請されたのは間違いなく、創建は1822年以降ということになる。しかし、誰がいつ建てたのかははっきり伝わっていないようだ。 『愛知縣神社名鑑』にはこうある。 「創建は明かではない。明治5年7月村社に列格する。昭和2年7月21日、拝殿を改築した。昭和34年9月伊勢湾台風に被災復興す。昭和51年4月11日社殿を改造した」 藤高前新田の開発者の伊藤喜左衛門が創建に関わっているのかどうか。 『尾張志』が完成したのは1844年ではあるけど、調査はそれ以前に行われたはずなのに藤高前新田の項がない。 結局、創建についてのいきさつは分からずじまいだった。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、現在地にすでに鳥居マークが描かれている。堤防沿いに並ぶ民家から少し離れた南に位置している。 戦前から戦後にかけても藤高前新田が純農村地帯だったことは変わらず、国道23号線が斜めに横切った以外は1970年代に至っても状況に大きな変化は見られない。 1976-1980年の地図では、南に工場が現れる。今の名古屋環境事業局がある場所だ。 気になるのは、このときの地図に鳥居マークが縦に3つ並んでいることだ。今の藤前に神明社以外の神社はない。これは何神社で、その後どうなったのだろう。 区画整理されて住宅地になるのは1980年代以降で、現在は住宅と工場が混在する地区になっている。 かつて藤高前新田だったところを見てみると、昭和57年(1982年)に可燃ゴミ焼却施設の名古屋環境事業局南陽工場が建てられ、そこで発生する熱は南陽プールの温水に利用されている。 プールといえば西エリアにサンビーチ日光川もある。平成6年(1994年)に完成した名古屋市営のプールで、淡水プールとしては国内最大級の水面積をほこり、名古屋のワイキキビーチを自称しているとかいないとか。ウォータースライダーや波のプールもある。 営業は7月、8月のみで、名鉄バスセンターから何故か三重交通のバスが出ている。
藤前というと、名古屋や周辺の人は藤前干潟を連想する人が多いと思う。 干潟というのは、潮の満ち引きで陸地化したり海になったりする海岸部のことで、そこではたくさんの水生生物が生息することから、それを狙って鳥たちが飛来する。 藤前干潟は江戸時代から渡り鳥が越冬するためにやってくる中継地となっていて、かつては潮干狩りの名所でもあった。 この干潟をつぶしてゴミの埋め立て地にする話が持ち上がったときに市民の大反対運動が起こって結局ゴミ処理場は作られなかった。2002年にラムサール条約に登録されたので、今後も開発されることはなく藤前干潟は守られた。
このあたりで戦前まで毎年7月に虫送り神事の「おんか祭り」が行われていた。戦時中に途絶えてしまったというけど、今もそのままだろうか。 平景清の姿を画いたのんぼりを先頭に、たいまつを手に持ち、太鼓を鳴らして田の虫を追いながら子どもを中心とした行列が田んぼの中を歩いていくというものだ。 萱津村から出発して福田村に入り、茶屋新田村、藤高新田を通って藤高前新田へと進んでいく。 各地の農村で当たり前に行われていたそんな行事も、今ではもうほとんど行われなくなってしまった。それを寂しいと感じるのは、部外者の勝手な感傷に過ぎないだろうか。 伊勢湾台風の被害にあって一時中断していた神楽は復活して今も伝えられている。
この藤前神明社はとても立派な神社だ。堂々としている。社殿にもしっかりお金をかけていて、なんというか守り手たちの気合いが感じられる。 港区にたくさんある神明社の中で、代表的な神明社といっていいと思う。
作成日 2018.8.4(最終更新日 2019.7.27)
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