藤高1丁目の道ばたにある小さな社。 社が二社、石仏が一体、横に並んでいる。石仏は地蔵像だろうか。 石仏の台座の横に「安政三年戌年九月吉祥日 伊藤氏□月建之」とある。安政3年は1856年だから、江戸時代末だ。 台座正面には「秀光智播□□ 奉納□□□□ 幽□□光□」などとあるのだけど、字が薄れて読み取れない。 社についてはまったく手がかりがなく、どんな神を祀ったものか分からない。秋葉社や天王社なのか、違う祭神なのか。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、ここは藤高前新田の集落だった場所ということが分かる。 藤高前新田の集落は、東の新川堤防沿いと、北の藤高新田との境の堤防沿いにあった。ここは北側集落の中央やや西寄りに当たる。 北堤防の北側に用水路が流れていて、それは今も変わらない。変わらないといえば、このたりは今もまだ水田地帯で田んぼが広がっている。
気になるのは、1976年(昭和51年)の地図から1989年(平成元年)の地図まで、藤前の神明社(地図)以外に2つの鳥居が新川沿いに描かれていることだ。1992-1996年(平成4-平成8年)の地図では一番北の鳥居が消えて鳥居マークは2つになる。 これらは何神社で、どこへ行ってしまったのだろう? 藤前の神明社に合祀されたとも考えられるのだけど、ひょっとするとこの2社がこの鳥居マークの社で、近年この場所に移されたのではないか。 地図上の鳥居マークとは無関係だとしても、もともとこの場所に社2つと地蔵像が置かれていた可能性は低そうだ。 すぐ西は高架になっている国道23号線で、この道路工事が関係しているかもしれない。
石仏の台座にある安政3年というのは台風で多くの死者が出た年で、特に江戸の死者は10万人という話があるほどだ。 前年の安政2年は江戸で大地震があって、このときもたくさんの死者が出た。 その前年の安政元年は東海地震と南海地震があって、このときは数千人が犠牲になっている。 そういう天変地異が続いたことと石仏を祀ったことは無関係ではないように思う。 社を祀ったのがそのときだったかどうかは何とも言えない。
神社サイトを作り始めるまでは、こんな道ばたの小さな社に関心を向けることはなかった。ああ、こんなところにもあるんだなと思うくらいのものだった。 小さな社にも多くの人の祈りや願いが込められており、長い歴史があることを知った今は、軽く横目で見ながら通り過ぎることはできなくなった。 大きくて立派な神社だけが神の社のすべてではない。大小多くの神の社が日本を守っているということを心の片隅にでも置いておくことが必要だと思う。神の名を出さずとも、それは人の思いには違いない。
作成日 2018.8.5(最終更新日 2019.7.27)
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