江戸時代前期(1646-1649年)に尾張藩初代藩主・義直の命で開発された熱田新田にあった神社だ。熱田新田は一番割から三十三番割に分けられ、そのうちの二十八番割の氏神がこの小碓の神明社だった。 『尾張志』(1844年)には「神明ノ社廿八番割の氏神也」とあり、『愛知縣神社名鑑』は、「尾張藩祖徳川義直の命により熱田新田を開発、二十七番二十八番割の氏神なりと『尾張志』にも記るす。明治5年7月、村社に列格し、昭和11年4月21日、供進指定社となる」と書いている。 創建年について『愛知縣神社名鑑』は不明としているのに対して、境内入り口の説明板では寛文9年(1669)に村の氏神として勧請したとしている。境内にある最近建てられたと思われる立派な由緒碑には「寛文九年酉八月十六日 施主鬼頭十郎右門」云々と彫られている。 1669年というと熱田新田が完成してから20年後のことだ。このとき、鬼頭十郎右門が創建したというのを全面的に信じていいのかどうか。 『尾張徇行記』(1822年)は、中郷村祠官高羽氏書上帳に、十八番割神明社、二十二番割神明社、二十八番割神明社は「此三社ハ慶安二丑年氏子共造立スル」とあると書いている。 慶安2年は1649年で、熱田新田が完成した年に当たる。その年に創建したという方が可能性が高いように思うけど、実際はどうなのだろう。
尾張国において新田開発を行った代表的な人物に鬼頭景義(通称は吉兵衛)がいる。 愛智郡八田村に土着した戦国浪人の子孫で、ルーツを辿っていくと鎮西八郎を称した源為朝に行きつく。 源氏と平家が争っていた平安後期に大暴れした武将で、保元の乱(1156年)のあと、伊豆大島に流され、そこでも暴れ回ったため、最後は軍を派遣されて討ち取られてしまった(1170年または1177年)。 その息子の尾頭次郎義次が尾張に来てを名を挙げ、土御門天皇の命で紀州の「鬼党」を退治したことで鬼頭姓を与えられた。 その子孫の鬼頭義直は信長の息子の信雄に仕えたものの、信雄が秀吉に追放されたときに武士を捨てて八田村に住みついた。 義次から22代目が景義で、1631年から1657年までの間に海東郡、海西郡、愛智郡、知多郡、春日井郡、美濃の安八郡のあわせて27ヶ所、二万二千石の新田開発を行い、尾張藩に多大な貢献をした。そのため、藩主から苗字帯刀を許されている。 小碓神明社の由緒に出てくる鬼頭十郎右門というのは、景義の四男の鬼頭吉形十郎右衛門のことだろう。 父親の景義から中島新田(中川区中島新町)の一部を譲り受けて中島新田に住んでいたはずだけど、どういういきさつで熱田新田の神社を建てることになったのか。施主というから、資金を出しただけということだろうか。 神社創建の1669年というと、父親の景義はまだ生きている。景義の没年は1676年だ。ただし、開発事業からはすでに退いて隠居していた。 景義は中島新田の八劔社(中島新町)の施主のひとりとして名を連ねている。 吉形十郎右衛門の生年が分からないのだけど、没年は1715年だから、1669年当時はまだ若い。 父の景義が所有していた熱田新田の一部は、長男の吉兵衛義知が譲り受けている。 いずれにしても、中島新田や熱田新田の一部は鬼頭一族が所有していた土地だから、鬼頭家が神社の創建にも関わったということは充分に考えられる。
小碓(おうす)の地名は、ヤマトタケルの最初の名前、小碓命(ヲウス)から来ている。このあたりは熱田社との縁が深いところでもあり、ヤマトタケルにまつわる地名をつけたということだろう。 明治になって熱田新田は西組と東組に分けられ、その後、村として独立して、明治39年(1906年)に明徳村、寶田村、寛政村が合併して小碓村となった。 明治の終わりから大正にかけて名古屋市に編入されて、一部が小碓町となる。 現在の小碓1丁目から4丁目は昭和43年(1968年)に小碓町、当知町、入場町の各一部より成立した。
今昔マップで小碓神明社周辺の地理的状況を確認しつつ変遷を辿ってみる。 明治中頃(1888-1898年)は、東を荒子川、西を庄内川が流れ、北には百曲街道、南には東海道が東西に通っていた。 荒子川以西は、中川区と港区の境界線が本来の海岸線で、今の東海通が熱田新田の南端に当たる。 明治4年(1872年)に熱田の宮宿と桑名の桑名宿を結ぶ渡し船が廃止になり、あらたに東海道を整備することになった。それが現在の東海通で、明治時代はこの道が国道の東海道だった。 この東海道は熱田を出発してやや南下したあと西に進み、今の明徳橋あたりで庄内川と新川を渡って福田の西で日光川を渡った。そこからやや南下して西に進み、前ヶ須で木曽川を渡る。長島を横断しつつ鰻江川を渡り、川口町で桑名に上陸するというコースだった。 現在の国道1号線が整備されてあらたな東海道とされたのは昭和9年(1934年)のことだ。 明治期の集落は、現在の小碓一帯に固まっていた。百曲街道の南に細い道が東西に通っており、その道沿いに家が並んでいた。 鳥居マークははっきり確認できないのだけど、神社は集落の南の現在地に創建されたのではないかと思う。 1920年(大正9年)の地図には今の場所に鳥居マークが描かれている。 ただ、1930年代以降の地図からは鳥居マークが消えて、復活するのは1968年(昭和43年)からだ。その理由はちょっと分からない。 戦後間もなくまでは農村地帯だったのが、昭和30年代に入って区画整理が行われて住宅地になった。
境内社として秋葉社と白龍社、御嶽社がある。御嶽大明神の石碑は御嶽教の人が建てたに違いない。白龍社のいわれは分からないのだけど、少し気になった。別の場所にあったものを境内に移したものかもしれない。 境内のクロマツは上部が折れたまま生長している。昭和34年の伊勢湾台風によってそうなったという。 名古屋市指定文化材の神楽が残っていて、名古屋まつり(web)に出されている。神楽の時に演奏する囃子も伝承されているそうだ。 8月には盆踊りも行われるというから、この神社は地域に根ざして充分に役立っているといえる。鬼頭一族も喜んでいるんじゃないだろうか。
作成日 2018.8.1(最終更新日 2019.7.26)
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