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秋葉社(福徳町)

福徳村の火除け神

福徳町秋葉社

読み方 あきば-しゃ(ふくとくちょう)
所在地 名古屋市北区福徳町3丁目 地図
創建年 不明
社格等 不明
祭神 不明
アクセス 地下鉄鶴舞線「庄内通駅」から徒歩約25分
駐車場 なし
その他  
オススメ度

 八龍社(福徳町)に隣接していて中でつながっているから境内社のようでもあるのだけど、入り口が別にあり、敷地としても一段下がったところにあることから別の神社のように思える。他の場所にあったものをここに移したのかもしれない。
 情報らしい情報がなく、詳細は不明だ。創建は古ければ江戸時代だろうけど、新しければ昭和の可能性もある。

 江戸時代ここは福徳村で、福徳の地名が今もそのまま残っている。
 福徳、中切、成願寺はもともと庄内川と矢田川に挟まれたところにあり、古くは安食郷(あじきごう)といって安食(葦敷)氏が治める土地だった。
 鎌倉時代に長母寺の僧が安食を仏教語の福徳に改めたという。
 昭和5年(1930年)に矢田川の付け替え工事が行われ、矢田川の流路は北へ移された。結果的に福徳、中切、成願寺は矢田川の南になった。
 中切の天神社神明社、福徳の八龍社はかつては矢田川の堤防上にあった神社だ。
 その頃の地形は今昔マップ(1888-1898年)を見るとよく分かる。中州の南堤防近くにそれぞれの集落があり、北側は田畑が広がっていた。

 神社のすぐ西にある聖徳寺(web)は、平安時代末に安食(葦敷)二郎重頼が建立したと伝わる天台宗の寺だ。
 もとは円光寺吉祥院と称し、墨俣合戦で戦死した息子の重義や家臣を弔うために重頼が建てたという。
 尾張の天台宗の中心、春日井野田の密蔵院の末寺だった。
 安食重頼が聖徳太子の守り札を兜に入れて戦ったからとか、本尊が聖徳太子自作だからといった理由で1675年に聖徳寺と改められた。
『尾張志』は聖徳寺について「福徳村にあり普門山といひて本寺上に同じ(注:高田村の高田寺のこと)大寺にて境地なとも廣かりしにや近きあたりに大門島という地あり」と書いている。
 安食重頼は源満政から七代の孫で、源重遠の次男とされる。そのあたりについては神明社(中切町)天神社(中切町)のページに書いた。

 福徳町は昭和12年(1937年)に西春日井郡萩野村大字福徳を名古屋市西区に編入して成立した。昭和19年に北区となる。
 今昔マップをもう一度見てみると、神社南に矢田川の橋が架かっていたことが分かる。今は高校のプールがあるところだ。
 ここはつい最近まで愛知工業高校だったのが、千種区星ヶ丘の県立東山工業高校と統合されて、今年度2018年からそちらに移ったので大きく変更があった。定時制課程が現地に残る一方、昼間の普通科が新設されて城北つばさ高校となった。
 川の水がなくなった川底は使い道がなかったのか、しばらくは空き地とちょっとした畑くらいしかなかったようだ。
 その後少しずつ建物が建てられるようになり、昭和16年(1941年)に愛知工業高校がここに新校舎を建てて移ってきた。
 昭和40年代になると川だったことが分からないくらい住宅が建ち並んだ。
 神社の境内は高いところにあって町を見下ろす格好になる。小山か古墳かと思うかもしれないけど、これは堤防だった頃の名残だ。

 秋葉社がもともとこの場所にあったかどうかははっきりしないけど、お堂のような建物に入れてもらっていることからすると、秋葉社というより秋葉堂だったのかもしれない。お寺の中にあったとも考えられる。
 いずれにしても福徳村の火除けとして祀られたのが始まりだったのではないかと思う。

 

作成日 2018.7.25(最終更新日 2019.1.12)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

福徳町秋葉社は八龍社の境内社か否か

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