坂井戸町のあたりはすぐ東の大野木村ではなく、少し離れた西に集落の中心があった上小田井村に属していたという。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)の地図を見ると、本当にここは上小田井村だったのだろうかと思う。 現在、上小田井にある星神社(地図)の旧地は坂井戸だったという。それがどこだったのか具体的な場所は調べがつかなかったのだけど、本当であればその意味は小さくない。 星神社は謎の多い神社でその正体がよく分からない。 『延喜式』神名帳(927年)にある坂庭神社が星神社だと、星神社側は主張する(小牧市多気東町の坂庭神社も論社とされる)。 古くから星祭りが行われて、その際に境内に土で壇を作って天香香背男神(アメノカガセオ)と牽星・織女星を祀り、庭に酒をまいたことから酒庭星社と呼ばれ、後に坂庭神社となったとする。 坂井戸の地名は、戦国時代に小田又六が城を築いたとき井戸を掘って、坂庭の坂と井戸をあわせて坂井戸という地名ができたという。 しかし、この説にはいろいろおかしな点があってそのまま素直に受け取るわけにはいかない。 まず酒庭が坂庭になったというけど、酒を坂にする必然がない。祭祀のときに酒をまくというのは特別変わったこととは思えないし、そのことをあえて神社名にするとは考えにくい。坂庭神社というのだから、文字通り坂にあった神社ということから名づけられたのではないのか。 それに、坂井戸の地名が戦国時代末の井戸から来ているというのも不自然だ。坂井戸の地名がいつ頃できたのかは分からないけど、戦国時代では遅すぎる。小田又六は信長と同じ時代の武将で、城が坂井戸城と呼ばれていたとすれば、少なくとも小田又六が井戸を掘る以前からあった地名ということになる。 星神社がいつ頃まで坂井戸にあって、いつどんなきっかけで坂庭神社から星神社に改称したのかも気になるところだ。 いずれにしても坂井戸の地名は坂庭神社や小田又六の井戸とは無関係な気がする。井戸はそのままの井戸ではないかもしれない。坂の井戸ではなく坂井(境)の戸という可能性もある。 ただ、小田井の地名も小田又六の井戸から来ているとされることから、やはり井戸が何らかの鍵を握っていたとも考えられる。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「創建は明かではない。明治維新までは天王社と称した。『尾張志』に天王社上小田井村にありと記す。明治6年据置公許となる」
『尾張志』(1844)の上小田井村の項を見ると、「星ノ社」と「諏訪ノ社 天王社 この二社も同村にあり」とある。この天王社が今の津島社だとすれば、坂井戸は上小田井村ということになりそうだ。 上小田井村の中心が坂庭神社(星神社)とともに坂井戸から西北に移ったのは、庄内川と矢田川の氾濫と無関係ではないだろう。では何故そんな危険な場所にそもそも神社を建てたのかが問題となる。平安時代以前の土木技術が未熟な時代に、こんな場所に神社を建てるだろうかという疑問を持つ。それは少し東にある式内社とされる大乃伎神社(地図)にも同じことが言える。
『寛文村々覚書』(1672年頃)の上小田井村の項には、「社弐ヶ所 内 星之宮 諏訪 社内弐反壱畝弐拾六歩 前々除」とあり、天王社は載っていない。江戸時代中期以降に創建された可能性が高そうだ。 ちなみに、江戸時代前期の大野木村の神社はこうなっていた。 「社四ヶ所 大明神 大将軍 児之御前 天神 当村祢宜 久右衛門持分 社内七畝弐拾歩 前々除」 大明神が大乃伎神社のことだろうけど、大将軍や児之御前といった神社は現存していない。大乃伎神社に合祀されてしまっただろうか。
坂井戸の津島社に関する情報はあまりない。もともと天王社だというのであれば、坂井戸の村人が疫病除けのために祀ったのが始まりだろう。江戸時代中期、もしくは後期か。 境内社として金刀比羅宮、国府宮神社、秋葉神社を祀っている。金比羅や秋葉権現は流行神として、国府宮は少し気になる。 国府宮神社こと尾張大國霊神社(web)は稲沢市の国府があったところに建てられた尾張国総社で、尾張大国霊神を祀っている。地元では、はだか祭りの神社としてよく知られている。 境内社として国府宮を祀っている神社もなくはないのだけど、それほど多くはない。最初から境内社だったのか、どこか別のところで祀っていたものを移したのかどちらだろう。
神社のすぐ北にある医王山薬師寺は明治10年(1877年)創建の比較的新しい寺で、小田又六の坂井戸城跡ともいわれている。 坂井戸城はそこではなくもっと西のCBC自動車学校があるところだという説もある。 小田又六については記録が残っておらず、よく分かっていない。小田井城主だった織田信張が通称、又六と呼ばれていたことから織田信張が坂井戸城主でもあったともされる。 今昔マップを見つつ地形を確認すると、現在の庄内通の少し東を稲生街道が通っていた。稲生(いのう)という地名は古く、天武天皇時代の673年に稲を献上したことから稲生の地名ができたともされ、式内の伊奴神社(地図)もある。 稲生街道は西の名塚と東の稲生の間を北上し、現在の庄内川橋よりも東で矢田川と庄内川を渡った。矢田川は徒歩で渡り、庄内川には稲生の渡しがあった。 坂井戸の津島社は、稲生の渡しで渡った少し西に当たる。 坂井戸城は砦程度のものだっただろうけど、建てる場所としては坂井戸の方が向いているように思う。ここより西では稲生街道を抑えきれない。 今の庄内緑地公園がある場所はかつて庄内川の中州で、堀越村、新福寺村、名塚村があった。江戸時代の初めの堤防工事の際に庄内川の南へ村ごと移るように命じられて、村の旧地は遊水池とされた。ここに砦を築くのは短期間とはいえやはり危険だ。堤防下の低地でもある。 今昔マップを見て少し気になったのは、1920年(大正9年)の地図では現在の薬師寺があるところに鳥居マークがあることだ。このときはもう薬師寺は建っている。ただ、薬師寺は薬師堂というお堂だったというから、神社と一体化していたかもしれない。 1932年(昭和7年)の地図では、卍マークと鳥居マークが横に並んでいる。薬師堂が薬師寺に改称するのは昭和14年(1939年)のことだ。 このときまでは庄内川橋は現在地に架け替えられている。 戦中、戦後はあまり状況が変わっていない。 1976-1980年の地図で、鳥居マークは現在地になっている。 地図から読み取れることと実際の状況は必ずしもイコールではないのだけど、神社は建て替えなどに伴って場所を動かしている場合が少なくない。社殿の位置をずらした程度のことは記録に残らないこともあるので、現地で得られた情報と地図や記録から分かることをすりあわせつつ想像で補っていくことになる。 地形は今と昔では大きく変わってしまっているのだけど、それでも現地に足を運んで実際に自分の目で見て初めて分かることも多い。神社調査も、フィールドワークは欠かせない。
作成日 2018.7.28(最終更新日 2018.12.18)
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