名古屋高速の高架下近くにあり、南を流れる天白川からは500メートルほど離れた場所に鎮座している。もともとは天白川堤防に建てられた神社だ。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「今を去る二八一年前霊元天皇の御代貞享三年(1686)伝馬新田が築かれるや氏子の先祖は天白川の堤防上の敷地に産土神として創建され後旧村社に列せられ氏子の崇敬篤く明治40年村社牛毛神社に合祀せられしも昭和24年名古屋市南区要町5丁目19番の2に遷座せられしが同境内地が昭和41年名四国道用として建設省に買収となり同年南区要町5丁目112番地に遷座現在に至る。氏子区域の人口世帯の増加と相まち氏子の守護神として益々神徳を昂揚せられあり」 おおむねその通りなのだけど、少し説明不足だ。 1686年が今を去ること281年前というなら、この文章が書かれたのは1967年(昭和42年)ということになる。『愛知縣神社名鑑』の発行は平成4年なのだけど、書かれている内容はけっこう古い。 ここでいっている伝馬新田は熱田のものではなく鳴海伝馬新田のことだ。 1672年(寛文12年)に鳴尾村の庄右衛門と大高村の弥兵衛の願い出によって新田開発が行われ、鳴海伝馬新田と名づけられた。 これは鳴海伝馬役人と尾張藩からの資金援助を受けて行われたもので、鳴海宿の伝馬の助成のためのものだった。 『愛知縣神社名鑑』は神社創建を1686年(貞享三年)としている。それが本当なら鳴海伝馬新田が完成した1672年から14年後ということになる。ちょっと信じられないのだけどどうなんだろう。
最初は天白川堤防の上にあったという話と、堤防の横腹にあったという話があり、どちらが正確なのか分からない。 江戸時代の前期から中期へと移っていく時代に、新田と村の守り神として八幡神を選んだということは、この頃にはもう武家の守り神というよりも農耕神としての性格を強めていたということだろうか。 八幡神はもともと「ヤハタ」といって、外来の神が起源という説がある。天皇家の守り神となり、仏教の守護神となり、武家の神となり、庶民の神となったという多様な面を持ち合わせている。今でも稲荷社についで全国で二番目に多いのが八幡神社だ。 明治40年頃、神社合祀政策によって牛毛神社(地図)に合祀された。 時は流れて戦後の昭和24年(1949年)、伝馬新田丹後江(たんごえ)の住民たちが八幡神を返してもらおうということになり、丹後江にあった秋葉神社に移して八幡社とした。 それが鳴尾町字丹後江3026番地だったのだけど、名四国道の敷地になってしまったため、昭和41年(1966年)に現在地に移された。 秋葉社は境内社として祀られている。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ても最初の遷座地がどこだったのかはよく分からない。天白川は南を流れているから、天白川右岸堤防ということになるだろうか。 丹後江の秋葉社があったのは、現在地の北西200メートルほどのところだったようだ。今はそこを名四国道と名古屋高速の高架が通っている。 丹後江の地名はなくなってしまったものの、丹後通という通り名や町名として名残をとどめている。
『愛知縣神社名鑑』は本殿を八幡造と書いてある。 八幡造というと切妻造で平入の建物が二棟前後につながっているものをいうのだけど、今の社は明らかに違う。流造の屋根に飾りがついたものだ。かつては八幡造の本殿を持っていたのか。 祭神として譽田別命(応神天皇)とその母の息長足姫命(神功皇后)を祀るとしている。江戸時代の新田村の住人に八幡神=応神天皇という認識はあっただろうか。
明治9年(1876年)に鳴海伝馬新田は、牛毛荒井村、北柴田村、柴田屋新田、源兵衛新田、丹後江新田、神徳新田と合併して鳴尾村となった。 要町が誕生したのは昭和25年(1950年)なので、八幡神が移ってきた翌年のことだ。 やはりひとつの集落に神社はひとつ必要で、明治政府が行った神社合祀政策は決して良いものではなかった。 城の取り壊しなどもそうだけど、明治政府のやり方には共感できない部分が多い。戦争や天災で失った歴史よりも自分たちの手で壊してしまった歴史の方が多いくらいだ。 時代の流れといえばそうだけど、日本は日本らしく歴史と伝統を重んじる古くさい国であっていいんじゃないかと個人的には思う。
作成日 2018.2.23(最終更新日 2019.8.19)
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