嶋川稲荷社

井戸田での師長と里娘の悲恋を今に伝える

嶋川稲荷社

読み方 しまかわ-いなり-しゃ
所在地 名古屋市瑞穂区土市町1丁目 地図
創建年 不明
社格等 不明
祭神 不明
アクセス

・地下鉄名城線「妙音通」から徒歩約1分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 地下鉄妙音通駅(みょうおんどおり)から少し南へ行ったところにある小規模の稲荷社。
 神社自体は取り立てて特徴のあるものではない。この神社は、藤原師長(ふじわらのもろなが)の謫居趾(たっきょあと)として語られる。
 嶋川稲荷の嶋川の由来は調べても分からなかった。
 現在の町名、土市町(どいちちょう)が誕生したのは戦後の昭和20年(1945年)で、瑞穂町の字南前田・土市・穴田・砂間の一部から成立している。土市は人名という説と、焼き物市が開かれていたからという説がある。
 嶋川は人名から来ているのか、地名から来ているのか、それ以外なのか。

 藤原師長は、藤原頼長(ふじわらのよりなが)の長男で、平安時代末の公卿(朝廷につとめる身分の高い役人)だ。
 父・頼長が左大臣だったこともあり、幼くして政治の現場に出ることになる。
 1151年に14歳で参議として公卿となり、1154年には17歳で権中納言になった。
 しかし、1156年に起きた保元の乱で父・頼長が敗れて死去したため、その息子である師長は官位剥奪の上、土佐国へ流罪となってしまう。弟三人も流され、それぞれの地で死んでしまった。
 師長のみが生き延び、8年後の1164年に罪を許され、京に戻ることとなる。
 その後、後白河法皇の庇護の元で出世を重ね、1177年、ついには太政大臣まで上り詰めた。
 しかしながらその2年後の1179年、平清盛がクーデター(治承三年の政変)を起こして成功すると、後白河法皇は幽閉の身となり、後白河側だった師長も官位を剥奪され、二度目の流罪となった。その配流先が尾張国愛智郡井戸田、今の瑞穂区妙音通あたりだったとされる。
 ちなみに、後白河の第三皇子である以仁王(もちひとおう)もこのとき所領を没収され、それに怒った以仁王が挙兵して源平合戦となり平家が滅び、鎌倉幕府が誕生するという流れになる。

 太政大臣という位の高い人間を流刑するとなったとき、どうして尾張の井戸田が選ばれたのか、理由はよく分からない。
 場所的にいうとここは、尾張国の海の入り口である熱田の少し東になる。
 後に鎌倉街道として整備される道が井戸田に集まっていたことから、農村地帯ではあっただろうけど、平安末当時でもある程度の集落はあっただろう。
 古代は瑞穂台地の下ということで鳴海潟と呼ばれる遠浅の海だった。南の笠寺台地との間で、陸地化してからも低湿地帯だったと考えられる。
 桶狭間の戦いで熱田社を出た信長がわざわざこの道を避けて北から大回りしているのは、潮が満ちると馬も走れないような土地だったからだろう。戦国時代でそうだったなら平安時代末ならなおさらだ。
 言い方を換えれば、海が近くて交通の便がいいところではあった。田舎ではあってもものすごく僻地というほどでもない。そのあたりの兼ね合いもあってこの地が選ばれたのだろうか。
 井戸田やこの周辺は古墳が多い土地柄で、何々塚と呼ばれるものも多かったことからすると、罪ケガレの地という性格を持つ土地だったのかもしれない。
 師長が流されてくる2年前には藤原師高兄弟がこの地に流されてきて、討たれてこの地に葬られている。

 師長が井戸田に流されてきたのは42歳のときだった。
 琵琶の名手としても知られ、風流を愛し、和歌を詠みながらのんびり暮らしていたという。
 若い頃の流刑経験からしてある程度達観していただろうか。
 師長が奏でる琵琶の音色は離れた熱田社にも届き、熱田社が震えたなどという話もある。
 流罪といっても牢に閉じ込められているわけではないので、この地でわりと自由に過ごしていたことだろう。熱田社にも足を運んだのではないだろうか。
 近くにある龍泉寺(地図)は師長がたびたび通ったとされ、木彫の師長像や木彫を模写した掛け軸(西区の清音寺に)などが伝わっている。
 津賀田神社にも祈願のため参拝したという話があり、それが本当だとすれば津賀田神社は平安時代末にはすでにあったことになる。
 師長の屋敷があった場所が嶋川稲荷のある場所だったかどうかは分からない。境内にある「藤原師長謫居趾」の石碑は区画整理でここに移されたというから、もともとは別の場所にあったようだ。
『尾張名所図会』を見ると、龍泉寺があって、小さな川を挟んで南側に師長屋敷跡と書かれている。なので、今の妙音通あたりではないかと思われる。
 その南には石川(山崎川)が流れ、山崎橋という木橋が架かっている。その南に山崎村とある。
 現在、南を流れる山崎川には師長小橋と師長橋と名付けられた橋がある。
 妙音通の妙音は、師長がこの地で出家して妙音院と号したことに由来するとされる(亡くなったときの法名とも)。

 師長が井戸田に流されて、翌年、後白河法皇の幽閉が解かれるとともに師長も許されて京に戻ったのは史実なのだけど、それにまつわるひとつのお話が語り伝えている。
 井戸田の地での暮らしのお世話をしていた里長(さとおさ)の娘、塊(かい)は師長に恋をして、師長が都に帰るとき後を追いかけてきたので、不憫に思った師長は愛用の琵琶「白菊」を娘に与えたのだけど、悲しみのあまり池に身を投げて命を落としたというものだ。
 中区栄の久屋大通には、そのとき娘が入水の前に小袖を掛けたと伝わる小袖掛けの松があった。
 別の話として、師長を見送るために娘は土器野(かはらけの)あたりまでついてきて、そこで白菊を渡され別れを告げられたため、庄内川に身を投げて、のちにそこが枇杷島と呼ばれるようになったというものもある。
 西区東枇杷島にある清音寺(地図)は、娘を哀れに思った村人たちが建てた寺で、娘の法名である清音院から取られたという。
 娘が辞世として残したとされるのが次の歌だ。

 四つの緒のしらべもたえて三瀬川、沈みはてぬと君につたえよ

 四つの緒は四弦の琵琶のことで、三瀬川は三途の川を指している。
 村娘が歌ったにしては上手くできすぎているし、いかにもすぎるので、後世の作だろう。
 あるいは、里長の横江時景は桓武平氏の流れを汲むという話もあり、そうなるとその娘も和歌の教養はあっただろうか。
 龍泉寺の北の民家に残る姫塚は、この娘を葬った塚だという伝承もある。

 実はこの白菊の琵琶が近年、ひょんなところから出てきて関係者を驚かせた。
 平成22年(2010年)に宮内庁三の丸尚蔵館に所蔵されていることが分かったのだ。
 師長は京へ帰るときに琵琶を熱田社に奉納したとされ、熱田社から尾張徳川家に伝わり、14代藩主慶勝が孝明天皇に献上したという。
 明治初めの皇居の火災で失われたと思われていたのだけど、実は燃えずに残っていたというのだ。その後、徳川美術館で展示された。
 ただし、これは尾張徳川家に伝わったものには違いないものの、師長の白菊かどうかは定かではないという。

 嶋川稲荷の情報は少なく、分かったことはほとんどない。以前は妙音通2丁目交差点あたり(地図)にあり、道路を作ることになり現在地に移されたとのことだ。
 いつ誰が建てたのかは調べがつかなかった。
 師長と直接関係があるわけではない。ただ、このあたりに師長の屋敷があったというだけだ。
 それでも、稲荷社はこの地での師長の暮らしぶりや娘の悲恋を伝える役割を担っている。神社としては充分役に立っているといえるのではないか。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

 

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