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八幡神社(服部)


服部は機織部からか服部さんからか



服部八幡神社

読み方はちまん-じんじゃ(はっとり)
所在地名古屋市中川区服部1丁目804 地図
創建年1407年(室町時代前期)
旧社格・等級等村社・七等級
祭神應神天皇(おうじんてんのう)
天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
軻具土神(かぐつちのかみ)
アクセスJR関西本線「春田駅」から徒歩約20分
駐車場 なし
その他例祭 彼岸明け10日目の日
オススメ度

 中川区北西部の服部にある八幡神社。
 服部は江戸時代の服部村(はとりむら)から来ていて、長らく「はとり」といっていた。
 昭和55年(1980年)に町名を決める住民投票が行われ、服部(はっとり)となった。同時に「はとり二丁目」も成立したものの、昭和57年(1982年)に服部二丁目に吸収されて「はとり」の町名はなくなった。それでも、「はとり中学校」や「はとり公園」などに名残をとどめている。



 服部は機織部(はたおりべ/はとりべ)から来ているという説がある。
 645-646年の大化の改新以前の品部(ともべ/朝廷に仕えた技能集団)のひとつに服部(はとりべ)があった。機織(はたおり)を専業とした部で、朝廷に織物を納めていた。全国にある服部の地名や名字はそこから来ていることが多いとされる。
 中川区の服部もそうかというと、必ずしもそうとはいえないようだ。



『尾張国地名考』の中で津田正生が指摘しているように、この地区は平安以前は海辺だっただろうからそれほど古い村ではない可能性が高い。神社がある場所は今も海抜0メートル地帯だ。
 機織部から来ているという説とは別に、「服部村は往昔伊勢国より移りたる因縁に出る地名なるべし」と書いている。
 続けて、「後世室町の時、津島武士の服部平左衛門は服部村の地頭ながら是は南朝の残卒七氏の内なれば氏と知行所と相に会(い)ひたるものなるべし」
 要するに服部さんがこの地の地頭だったから服部村というようになったというのだ。
 実際のところは分からない。まったく別の由来かもしれない。



 神社創建は室町時代前中期の1407年とされている。この時代に建てられた神社で創建年と創建のいきさつがはっきり伝わっているところは珍しい。
『愛知縣神社名鑑』や神社の由緒書きにもそのあたりのことが書かれている。
「社伝に当所を開墾した萱津越の高取金石ヱ門、伊藤平兵衛、三好権左ヱ門、甚目寺越の異相清兵衛、朝日越の恒川助九郎、吉田新七、清洲越の水野長蔵ら土地を開き、応永14年(1407年)1月6日、鎮守の社を創建した」
 これらの人物たちが室町時代にこの地を開墾して、土地の鎮守として神社を祀ったのが始まりと考えてよさそうだ。
「延宝3年(1675年) 元禄5年(1692年) 正徳元年(1711年) 享保11年(1726年) 安永3年(1774年) 文政10年(1827年)等、十数枚の棟札を社蔵する」も、昭和34年(1959年)の伊勢湾台風で社殿などはすべて失われてしまったという。
 現在のコンクリート造の社殿は昭和41年(1966年)に再建されたものだ。



『寛文村々覚書』(1670年頃)の服部村の項を見ると、神社は八幡だけが載っている。
「八幡宮 須成祢宜 三郎大夫持内 社内壱反拾六歩 前々除」
 江戸時代前期は八幡宮と称していて、須成村の社人が管理していたようだ。
『尾張徇行記』(1822年)にはこうある。
「須成村社人寺西伊豆守書上張ニ、八幡社内五畝御除地 勧請ノ初ハ知レズ、正保元申年総氏子共修理スト也」
 再建されたという正保元年は江戸時代前期の1644年だ。
 ここでも八幡社のみしか書かれていない。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、八幡は集落から少し外れた北にあったことが分かる。



『尾張志』(1844年)には興味深いことが書かれている。
『日本書紀』を引用しつつ、「應神天皇の御世にはしめて織女を得給へり今服部村に八幡宮を祭奉りしは故ある事にてなほざりの義にあらすと知へし」と。
『日本書紀』の内容というのは、応神紀37年(426年)に、縫製技術者を送ってもらうために阿知使主・都加使主を呉(くれ/中国の江南地方)へ向かわせ、高麗に行って案内を頼んだら高麗王がふたりの案内人をつけてくれたので無事呉に辿り着くことができて、呉王は縫女の兄媛・弟媛・呉織・穴織の4人を与えてくれたというものだ。
 機織りに由来するであろう服部村に応神天皇を祀る八幡社があることは故のないことではないと言いたかったのだろう。
 こじつけといえばそうかもしれないけど、古くは服織の里と呼ばれていたというから、機織りと何らかの関係があったことで服部村と名付けられたという可能性は残る。



 津田正生がいう伊勢国から移ってきた云々というのも、この話と関係がある。
 伊勢国にも服部村があり、そこには呉服(くれはとり)、漢服(あやはとり)の二流があって、それらの一族がここに移り住んだのではないかというのだ。
 この地で地頭になった服部平左衛門はその末裔ともいう。
 このあたりの話ははっきりしないのだけど、桶狭間の戦いで今川義元に一番槍をつけた服部小平太こと服部一忠も一族とされる。



 応仁の乱が始まる前の室町時代前中期という時代において、土地を開墾した人たちにとって八幡神とはどんな神だったのだろう。
 頼朝が鎌倉幕府を開いて鶴岡八幡宮を源氏の守護神としたことで八幡神は武家の神、戦の神という性格が強まった。とはいえ、それだけではなかったはずで、八幡神はそれ以前から神仏習合の神だった。応神天皇を祀る武家の守り神というだけではこれほど多くの八幡社が全国に建てられたことの説明がつかない。
 八幡神はもともと「やはた」だった。「はた」は旗、機織り、畑などにも通じる。八幡神の本質は何かというのは難しいところだけど、多様な面を持っているということは頭に入れておいてもいいと思う。
 そもそもでいうと、この神社は八幡社ではなかったかもしれない。八幡神だったとしても応神天皇を祀る神社として創建されたわけではないのではないか。



 神社には強飯祭(おこわまつり)と御鍬祭(おくわまつり)という珍しい神事が伝わっている。
「おこわ」といってもあまり馴染みがないだろうけど、もち米を蒸した米飯を御強(おこわ)という。赤飯もその一種だ。もともとは強飯(こわめし)といっていた。
 尾張地方西部に伝わる神事で、一部の神社では今も続いているようだ。
 中村区の明神社のところでも出てきたけど、お櫃(ひつ)に入ったおこわを奪い合うといったものらしい。
 御鍬祭は60年に1度行われる神事で、中川区助光の神明社・土之宮合殿でも行われていたという。
 由来ははっきりしないのだけど、神宮の外宮から伝わったとか、伊雑宮発祥という説があたり、ここにも伊勢とこの神社とのつながりを思わせる。
 服部八幡社では明治18年と昭和20年に斎行されたようだけど、その後途絶えてしまったのだろうか。



 大正7年(1918年)に八幡社に合祀された神明社と秋葉社についてはまったく情報がなく調べがつかなかった。
 入り口に隣接する観音寺はかつての神宮寺かと思ったらそうではないようで、集落にあった観音の石仏を集めて祀る観音堂があって、昭和28年(1953年)に寺となったという。



 服部の地名由来とこの神社の正体は連動しているには違いないけど、現状ではそれ以上分からないというのが結論となる。
 神社の創建が室町時代だとしても、それより古くからの集落があって何からの神を祀っていた可能性もあり、機織部が住んでいたことが地名の由来となったというのは充分考えられることだ。
 当たり前だけど分かっている事実だけが歴史ではない。




作成日 2017.6.17(最終更新日 2019.5.30)


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