稲荷社(十一屋)

十一屋と丸栄

十一屋稲荷社

読み方 いなり-しゃ(じゅういちや)
所在地 名古屋市港区十一屋3丁目148 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 村社・十二等級
祭神 宇賀乃御魂命(うかのみたまのみこと)
猿田彦命(さるたひこのみこと)
大宮女命(おおみやめのみこと)
アクセス あおなみ線「稲永駅」から徒歩約20分
駐車場 なし
webサイト  
オススメ度

 十一屋3丁目にある稲荷社。
 まずここがどこの新田にあった神社かということをはっきりさせたい。

『愛知県神社名鑑』はこう書く。
「創建は明かではない。稲永新田の一部落で村内の安全と五穀豊穣を祈って奉斎した産土神で氏子の崇敬あつく、明治5年7月、村社に列格した。昭和20年5月空襲により社殿被害あり。昭和22年本殿再建社殿を改修した。昭和34年9月、伊勢湾台風により水害をうく、昭和40年、社殿、社務所を改修した」

 それに対して港区のページではこう書いている。
「江戸末期に開発された山藤新田に五穀豊穣を祈って奉斉され明治初期に列格した」

 今昔マップの明治中期(1888-1898年)を見ると、堤近くにあり、西は宝来新田のようであり神宮寺新田のようでもあるのだけど、おそらく神宮寺新田なのだろう。東は熱田前新田で、熱田前新田と神宮寺新田の間であるなら、山藤新田ということになる。
『愛知県神社名鑑』がいう稲永新田はあり得ない。稲永新田は稲富新田と永徳新田が明治9年に合併してできたもので、それはもっと南だ。現在の稲永や野跡がそれに当たる。

 山藤新田は、1801年に完成した熱田前新田を更に西に延長する格好で、1817年(文化14年)に干拓によって作られた(1817年なので港区のいう江戸末期というのは違っている)。
 北に隣接する元美新田とともに、戸田村(中川区)の山田弾六と宮町(中区)の藤川屋伊藤九郎助たちによって開発された。山田と藤川屋からそれぞれ一字を取って山藤と名づけた。
 元美新田の元美の由来は調べたけどよく分からなかった。
 山藤・元美新田の西に隣接する神宮寺新田も同じ1817年に開発されている。
 その南の宝来新田は1822年(文政5年)に熱田大宮司の千秋家が名義貸しをして築造された干拓新田で、実際の開発者は山田弾六とされる。
 明治9年(1876年)に山藤・元美新田、神宮寺新田、宝来新田は合併して宝神新田となり、明治22年(1889年)に甚兵衛後新田、熱田前新田、稲永新田と合併して寛政村となった。

 山藤新田の完成が1817年なら、ほどなくして神社が建てられてもよさそうだけど、『尾張志』(1844年)、『尾張徇行記』(1822年)ともに山藤新田の神社は載っていない。『愛知県神社名鑑』も創建年は不明としている。
 ただ、明治5年(1872年)に村社に列格しているから、江戸時代に建てられたのはまず間違いない。
 今昔マップの1888-1898年に鳥居マークはなく、1920年(大正9年)の地図から鳥居マークが現れる。
 この頃の地図には十一屋ではなく「十一夜」とあり、それは戦後まで続く。

 十一屋は、名古屋広小路の呉服商十一屋の小出庄兵衛の所有地だったことからその屋号をとって十一屋と呼んだのが由来となっている。
 尾張を代表する三家衆、除地衆、十人衆の中で、十一屋は除地衆のひとつだった。
 三家衆は、信濃屋の関戸哲太郎、いとう呉服店の伊藤次郎左衛門、内海屋の内田鋼太郎で、これらの家も新田開発に関わっている。
 十一屋の祖となった初代・小出庄兵衛が摂州音羽村(大阪府茨木市)から名古屋城下に移ってきて広小路玉屋町に小間物屋を開いたのが始まりで、小出家は後に御用達商人七家に入る名古屋を代表する豪商になった。
 大正4年(1915年)に玉屋町から栄町に移り、木造二階建ての建物を建てて呉服商を始めた。これが後の丸栄だ。
 大正8年(1919年)に木造四階建ての洋風建築に改築。大正10年(1921年)には鉄筋コンクリート五階建てに建て替え、翌年株式会社十一屋とした。
 昭和12年(1937年)には地上七階、地下二階の鉄筋コンクリート建てにして百貨店となった。
 その2年後の昭和14年(1939年)、十一屋の真向かいに三星デパートが進出してきた。強力なライバルが来て焦った十一屋だったが、戦争が始まると百貨店はできるだけ合併するようにという国のお達しがあり、昭和18年(1943年)に十一屋と三星は合併。丸く栄えるようにという願いを込めて丸栄と名づけられた。
 売り場を旧十一屋百貨店にまとめ、旧三星百貨店は名古屋貯金局に貸し出すことになった。
 しかし、空襲で旧十一屋も旧三星も建物が焼失。
 戦後、旧十一屋の北に丸栄会館を建てて営業を再開し、翌年旧三星の西にも新店舗を建築した。
 現在の丸栄の建物は昭和27年(1952年)に建てられたものだ。
 そして、平成30年(2018年)6月30日をもって丸栄は営業を終えた。

 この稲荷社は稲荷社らしさというものがまったく感じられない。名前は稲荷社でも中身は別物に思えた。
 祭神は宇賀乃御魂命、猿田彦命、大宮女命の三柱で、熱田前新田の東の割の氏神だった辰巳町の稲荷社と同じだ。あちらにならったと考えられる。
 拝殿内に龍の絵が描かれた額がかけられ、拝殿外側上部に力神(リキジン)がいる。
 亀崎の山車に力神車というのがあり、亀崎望州楼三代目の成田新左衛門が遠州秋葉山に参拝したとき山門にある力神を見て感激して、作者を訊ねたところ諏訪の立川和四郎富昌という人物だと分かり、依頼して山車に彫ってもらったのだという(1827年)。
 力神というのは仏教の守護神とも、四天王に踏みつけられている悪鬼のことともいわれ、よく分からない。
 三河では馴染みがあるのかもしれないけど、名古屋では珍しい。私の知る限り、ここ十一屋で見たのが二例目で、あとは中川区大当郎にある神明社の拝殿で見ただけだ。

 10月の秋祭りでは、七つの町内から4基の神輿と七体の獅子頭が神社に奉納され、子供たちが法被を着て神輿を担ぐそうだ。
 丸栄がなくなってしまった今、十一屋と丸栄の話も語り継がれることなく忘れ去られてしまうのかもしれない。稲荷社のお神輿を担いでいる子供たちが丸栄を知る最後の世代となるだろうから、大人達は子供たちにそんな話を語って聞かせてあげてもいいんじゃないかと思う。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

稲荷社であることを疑う十一屋稲荷社

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