MENU

稲荷社(十一屋)


熱田前新田南ノ割と十一屋と丸栄百貨店



十一屋稲荷社

読み方いなり-しゃ(じゅういちや)
所在地名古屋市港区十一屋3丁目148 地図
創建年不明
旧社格・等級等村社・十二等級
祭神宇賀乃御魂命(うかのみたまのみこと)
猿田彦命(さるたひこのみこと)
大宮女命(おおみやめのみこと)
アクセスあおなみ線「稲永駅」から徒歩約20分
駐車場 なし
その他例祭 10月10日
オススメ度

 十一屋3丁目にある稲荷社。
 まずここが何新田にあった神社かということをはっきりさせたい。



『愛知県神社名鑑』はこう書く。
「創建は明かではない。稲永新田の一部落で村内の安全と五穀豊穣を祈って奉斎した産土神で氏子の崇敬あつく、明治5年7月、村社に列格した。昭和20年5月空襲により社殿被害あり。昭和22年本殿再建社殿を改修した。昭和34年9月、伊勢湾台風により水害をうく、昭和40年、社殿、社務所を改修した」



 それに対して港区のwebサイトではこう書いている。
「江戸末期に開発された山藤新田に五穀豊穣を祈って奉斉され明治初期に列格した」



 今昔マップの明治中期(1888-1898年)を見ると、堤近くにあり、西は宝来新田のようであり神宮寺新田のようでもあるのだけど、おそらく神宮寺新田なのだろう。東は熱田前新田で、神宮寺新田と熱田前新田の間なら山藤新田ということになる。
『愛知県神社名鑑』がいう稲永新田はあり得ない。稲永新田は稲富新田と永徳新田が明治9年に合併してできたもので、それはもっと南だ。現在の稲永や野跡がそれに当たる。



 とりあえず山藤新田ということで話を進めることにしたい。
 山藤新田は、1801年に完成した熱田前新田を更に西に拡げる格好で、1817年(文化14年)に干拓によって作られた(1817年なので港区のいう江戸末期というのは違っている)。
 北に隣接する元美新田とともに、戸田村(中川区)の山田弾六と宮町(中区)の藤川屋伊藤九郎助たちによって開発された。山田と藤川屋からそれぞれ一字を取って”山藤”と名づけた。
 元美新田の”元美”の由来は調べたけどよく分からなかった。
 山藤・元美新田の西に隣接する神宮寺新田も同じ1817年に開発されている。
 その南の宝来新田は1822年(文政5年)に熱田大宮司の千秋家が名義貸しをして築造された干拓新田で、実際の開発者は山田弾六とされる。
 明治9年(1876年)に山藤・元美新田、神宮寺新田、宝来新田は合併して宝神新田となり、明治22年(1889年)に甚兵衛後新田、熱田前新田、稲永新田と合併して寛政村となった。



 山藤新田の完成が1817年なら、ほどなくして神社が建てられてもよさそうだけど、『尾張志』(1844年)、『尾張徇行記』(1822年)ともに山藤新田の神社は載っていない。
 ただ、明治5年(1872年)に村社に列格しているから、江戸時代に建てられたのは間違いない。
 今昔マップの1888-1898年に鳥居マークはなく、1920年(大正9年)の地図から鳥居マークが現れる。
 この頃の地図には十一屋ではなく”十一夜”とあり、それは戦後まで続く。



 十一屋は名古屋広小路の呉服商十一屋の小出庄兵衛の所有地だったことからその屋号をとって呼んだのが由来となっている。
 尾張を代表する三家衆、除地衆、十人衆の中で、十一屋は除地衆のひとつだった。
 三家衆は信濃屋の関戸哲太郎、いとう呉服店の伊藤次郎左衛門、内海屋の内田鋼太郎で、これらの家も新田開発や新田経営に携わっている。
 十一屋の祖となった初代・小出庄兵衛が摂州音羽村(大阪府茨木市)から名古屋城下に移ってきて広小路玉屋町に小間物屋を開いたのが始まりで、小出家は後に御用達商人七家に入る名古屋を代表する豪商になった。
 大正4年(1915年)に玉屋町から栄町に移り、木造二階建ての建物を建てて呉服商を始めた。これが後の丸栄だ。
 大正8年(1919年)に木造四階建ての洋風建築に改築。大正10年(1921年)には鉄筋コンクリート五階建てに建て替え、翌年株式会社十一屋とした。
 昭和12年(1937年)には地上七階、地下二階の鉄筋コンクリート建てにして百貨店となった。
 その2年後の昭和14年(1939年)、十一屋の真向かいに三星デパートが進出してきた。強力なライバルが来て焦った十一屋だったが、戦争が始まると百貨店はできるだけ合併するようにという国のお達しがあり、昭和18年(1943年)に十一屋と三星は合併。丸く栄えるようにという願いを込めて丸栄と名づけられた。
 売り場を旧十一屋百貨店にまとめ、旧三星百貨店は名古屋貯金局に貸し出すことになった。
 しかし、空襲で旧十一屋も旧三星も建物が焼失。
 戦後、旧十一屋の北に丸栄会館を建てて営業を再開し、翌年旧三星の西にも新店舗を建築した。
 現在の丸栄の建物は昭和27年(1952年)に建てられたものだ。
 そして、平成30年(2018年)6月30日をもって丸栄は営業を終えた。



 この稲荷社は稲荷社らしさというものがまったく感じられない。名前は稲荷社でも中身は別物に思えた。
 祭神は宇賀乃御魂命、猿田彦命、大宮女命の三柱で、熱田前新田の東ノ割の氏神だった辰巳町の稲荷社と同じだ。両社の話し合いでそうなったのか、どちらかがどちらかにならたのか。
 拝殿内に龍の絵が描かれた額がかけられ、拝殿外側上部に力神(リキジン)がいる。
 亀崎の山車に力神車というのがあり、亀崎望州楼三代目の成田新左衛門が遠州秋葉山に参拝したとき山門にある力神を見て感激して、作者を訊ねたところ諏訪の立川和四郎富昌という人物だと分かり、依頼して山車に彫ってもらったのだという(1827年)。
 力神というのは仏教の守護神とも、四天王に踏みつけられている悪鬼のことともいわれ、よく分からない。
 三河では馴染みがあるのかもしれないけど、名古屋では珍しい。東北部ではまったく見られず、ここ十一屋稲荷社と中川区大当郎の神明社など数ヶ所しかない(残っていないだけかもしれない)。



 10月の秋祭りでは、七つの町内から4基の神輿と七体の獅子頭が神社に奉納され、子供たちが法被を着て神輿を担ぐそうだ。
 丸栄百貨店がなくなってしまった今、十一屋と丸栄の話も語り継がれることなく忘れ去られてしまうのかもしれない。稲荷社のお神輿を担いでいる子供たちが丸栄百貨店を知る最後の世代となるだろうから、大人は子供たちにそんな話を語って聞かせてあげてもいいんじゃないかと思う。




【追記】2020.9.26



 この神社に関わりがあって詳しく調べた方に情報をいただいたので紹介したい。
『名古屋商人史』(林董一/1966年)に水口屋文書の「熱田前新田記録」が載っており、そこにはこう書かれているという。



「今年(文化九年/1812年)当初南の割之内字甚兵衛高ニ社地 御宮ヲ建立シテ稲荷大明神奉勧請子孫繁栄五穀成就祈者也」



「熱田前新田南ノ割地所 玉屋町十一屋庄兵衛江譲渡申候 右新田之内稲荷之神社是又私控二御座候所庄兵衛所望ニ付今般同人江相譲り申度奉願上候」(文政四年/1821年)



 弘化四年(1847年)村絵図の熱田前新田図面を見ると、今の十一屋稲荷社のやや北に鳥居マークと宮の表記があり、そこは熱田前新田南ノ割となっている。



 以上から、もともとこの稲荷社を最初に祀ったのは水口屋伝兵衛で、それは熱田前新田南ノ割を所有して間もない1812年のことだった。その後、1821年に熱田前新田南ノ割の所有が水口屋伝兵衛から玉屋町十一屋庄兵衛に移った際、十一屋庄兵衛が稲荷社も譲り受けている。
 この稲荷社こそが今十一屋にある稲荷社ではないかというのが教えてくれた方の推測だ。



 水口屋伝兵衛について少し書いておくと、本性は小川で、初代の伝兵衛政央は山城国井手里玉水村で生まれ、近江国水口で荒物業をやったあと、1697年(元禄10年)に名古屋に移ってきた。
 玉屋町で呉服物の商いを始めたのが1712年(正徳2年)で、代々当主は水口屋伝兵衛を名乗り、1795年(寛政7年)には尾張藩より御勝手御用達となっている。



 なるほどそうだったのかと納得すればいいのだけど、少し疑問も残る。
 まず、山藤新田と元美新田に神社はあったのかなかったのかという点が気になる。新田開発を行うに際して神を祀らないということは考えづらい。干拓による新田開発は大変困難を極めるものだった。
 それから、山藤新田と元美新田がいつ十一屋庄兵衛のものになったのかという点だ。あるいは、所有は移っていなかったのか。
 山藤新田と元美新田は数名が関わって開発された新田なのだけど、中心となったのは戸田村庄屋の山田弾六だったようだ。千石ほどの富豪だったとされる山田弾六が苦労して開発した新田を数年足らずで売り払ってしまうということがあっただろうか(千石というと千人を食べさせていけるということ)。
 時系列を整理すると、熱田前新田の南ノ割を水口屋伝兵衛が所有するようになったのが1812年以前。
 熱田前新田は1801年に完成しているから、水口屋伝兵衛は開発ではなく新田経営をしたということだ。江戸時代中期以降は藩主導ではなく商人が積極的に新田開発や新田経営に乗り出すようになっていた。
 水口屋伝兵衛が熱田前新田南ノ割に稲荷社を建てたのが1812年。新田と稲荷社をあわせて十一屋庄兵衛に譲ったのが1821年。
 その間の1817年に山藤新田と元美新田が完成している。これらは熱田前新田の西側を少し広げる格好で干拓して田んぼにしたものだ。
 1821年に十一屋庄兵衛が熱田前新田南ノ割を所有することになったときに山藤新田と元美新田もあわせて譲り受けたという可能性も考えたのだけど、これはたぶんない。
 というのも、天保二年(1831年)に山藤新田、元美新田、神宮寺新田の検地が行われた際、山田弾六が案内役を務めたという記録が残っているからだ(検地帳の筆頭は藤川屋になっている)。
 もし1821年に十一屋庄兵衛が熱田前新田南ノ割と山藤新田、元美新田をあわせて譲り受けていたら山藤新田と元美新田は熱田前新田南ノ割に組み込んでしまっただろう。しかし、山藤新田、元美新田は明治11年(1878年)に宝来新田、神宮寺新田と合併して宝神新田となるまで地名としても残っていた。
 とはいえ、この辺り一帯を十一屋庄兵衛が所有したから十一屋の地名が残ったに違いなく、どこかの時点で新田の移譲が行われた可能性は高い。
 考えられるとすると、山藤新田、元美新田、神宮寺新田の検地が行われた1831年(天保二年)から熱田前新田の絵図が描かれた1847年(弘化四年)の間に山藤新田、元美新田は熱田前新田の南ノ割に組み込まれたということだ。
 絵図には山藤新田、元美新田の表記がなく、このあたり一帯は熱田前新田南之割となっている。
 集落は現在の稲荷社の南側にあり、南北を流れる水路沿いに10軒ほどが描かれている。



 熱田前新田の氏神としては、東ノ割が辰巳町の稲荷社、中ノ割が本宮町の龍神社、西ノ割が善進町の神明社だった(熱田前新田については池鯉鮒社(魁町)のページでも少し書いてます)。
『尾張志』の熱田前新田の項には「稲荷社二所 神明ノ社 龍神ノ社」とあり、稲荷社のもうひとつがどこのことなのか不明だったのだけど、この稲荷社が水口屋伝兵衛が南ノ割に建てて十一屋庄兵衛が譲り受けたものだったとすると辻褄が合う。
 では、その稲荷社が今の十一屋稲荷社かというと、なんとも判断が難しい。
 あらためて今昔マップ(1888-1898年)を見てみると、江戸時代後期の集落に加えて、明治中頃までに旧集落の北側にあらたに東西に伸びる集落が加わったことが分かる。
 ここでふと思ったのが、山藤新田、元美新田は熱田前新田南ノ割の小作人たちが米作りを行っていたのではないかということだ。
 山藤新田、元美新田は狭い田んぼだから、あらたな入植者は必要なかったのかもしれない。数軒くらいは増えたとしても独立した集落を作るまでもなく熱田前新田南ノ割の集落に加わる形だったのではないか。
 だとすれば、すでに熱田前新田南ノ割の氏神として稲荷社があるのだから、新しく神社を建てる必要もない。
 ただ、そうなると気になるのが稲荷社の位置だ。
 1847年の絵図では旧集落から見て少し離れた北西に描かれている。これは旧山藤新田だった場所だろう。もともと熱田前新田南ノ割に祀られたのだとすると、もっと東側になければいけない。
 1817年に山藤新田ができたときに南ノ割にあった氏神を山藤新田側に移すというのも不自然だし、1821年に十一屋庄兵衛が熱田前新田南ノ割を譲り受けたときに稲荷社ももらったという話とも辻褄が合わなくなる。
 あるいは、1821年から1847年の間のどこかで東から西へ移されたということか。集落の事情もしくは台風などの災害に遭ったのかもしれない。
 この稲荷社の問題は、やはり場所にあるように思う。
 まだ少し疑問が残った。



 元美新田の集落については、西ノ割の善進町の神明社がある集落とくっついたかもしれない。
 宝来新田と神宮寺新田にはそれぞれ八劔社が氏神としてあった(八劔稲荷相殿ノ社と八劔ノ社弁才天水天宮相殿社)。今の熱田社(宝神町会所裏)熱田社(宝神町敷地)がそれに当たる。



 以上が教えていただいた情報に私があらたに調べて推論を加えたものだ。理にかなっているように思えてもそれが事実とは限らないので、結論は保留ということになる。
 何か分かれば追記もしくは訂正したい。




【再追記】2020.10.12



 前回教えていただいた方から更に情報をいただき、その方とのやりとりの中でだいたいのことが分かったので再追記します。



 結論から言うと、現在十一屋にある稲荷社は、熱田前新田の南ノ割に水口屋伝兵衛が創建したもので間違いないと思う。熱田前新田南ノ割の氏神だった。
『愛知県神社名鑑』の稲永新田云々というのは問題外として、港区webサイトの「江戸末期に開発された山藤新田に五穀豊穣を祈って奉斉され」というのも間違っている。
 そもそも出発点が違っていたことで混乱してしまった。



 あらためて江戸時代の熱田前新田南ノ割や神宮寺新田の地図と今昔マップ、現代の地図を見比べてみたところ、山藤新田は十一屋3丁目あたりではなく宝神1丁目と神宮寺1丁目の東側だということが分かった。
 山藤新田の広さは二町三畝十四歩というから6,250坪ほどだ。サッカーフィールド3面が縦に並んだくらいというと感覚的に理解しやすいだろうか。広大な熱田前新田などと比べるとごく小規模のものだった。
 稲荷社の西側の道がかつて熱田前新田南ノ割と山藤新田を隔てる堤があったところに当たる。現代の地図を見ると当時の地形の名残がはっきり見て取れる。
 今の十一屋稲荷社がある場所は熱田前新田南ノ割の西端ということになる。集落は神社の南東にあった。
 山藤新田は元美新田とともに神宮寺新田の側にあって、神宮寺新田側で管理していたようだ。山藤・元美新田と神宮寺新田は同年の完成だから、西側の神宮寺新田側に堤を築いて干拓して、東の一部を山藤・元美新田として区分けしたとも考えられる。
 実際の稲作についても、神宮寺新田の小作人たちが行っていたのではないだろうか。だから山藤・元美新田に神社をあらたに創建する必要はなかったのだろう。神宮寺新田には氏神として八劔社(今の宝神町敷地の熱田社)があった。
『尾張徇行記』(1822年)、『尾張志』(1844年)ともに山藤新田、元美新田についての記載がないのも、その頃からすでに山藤・元美新田は神宮寺新田の一部という認識だったからかもしれない。
 天保二年(1831年)に山藤新田、元美新田、神宮寺新田をまとめて検地したことや 明治9年(1876年)に山藤新田、元美新田、神宮寺新田、宝来新田を合併したことなどもそれを表している。



 神社創建までの経緯について少し補足すると、寛政12年(1800年)から始まった熱田前新田の開発は翌享和元年(1801年)に完成して地主たちに払い下げられた。
 しかし、長年塩水に浸かっていた土地だったため、干上がらせてもすぐに農地にできたわけではなく、米を初めとした農作物を収穫できるまでには何年もかかった(新田といっても田んぼだけでなく畑も多かった)。
 熱田前新田南ノ割について言うと、西の海側が特に苦労したようで、文化三年(1806年)に在郷地主の森川彦十郎が命じられて手がけるも上手くいかず、文化四年(1807年)に水口屋伝兵衛が引き継いで5年後の文化九年(1812年)にようやく完成した。
 それからほどなくして南ノ割の氏神として創建したのがこの稲荷社だった。
 その後、文政四年(1821年)に十一屋小出庄兵衛が熱田前新田南ノ割を所有することになったとき稲荷社も譲り受け、そのまま明治を迎えた。
 戦争や伊勢湾台風、戦後の宅地整理の中で多少移動したことはあっても大きくは動いていないはずだ。少なくとも熱田前新田南ノ割からは出ていない。この神社は山藤新田とは無関係ということになる。
 当時の境内地は東西八間四尺(約16メートル)、南北十五間三尺五寸(約28メートル)というから、現在よりも少し狭いくらいだ。
 境内がこれくらいあったということは、社のみというわけではなく神社と呼べる規模のものだったと想像できる。



 分かってしまえば特に複雑な歴史があるわけではないのだけど、それもこの神社に関わりのある方が丹念に調べられたから分かったことで、私一人では知ることはできなかった。
 あらためてお礼申し上げます。




作成日 2018.7.12(最終更新日 2020.10.13)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

稲荷社であることを疑う十一屋稲荷社

HOME 港区