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御嶽神社(松坂町)


誕生講と覚明行者のこと



松坂町御嶽神社

読み方おんたけ-じんじゃ(まつさか-ちょう)
所在地名古屋市守山区松坂町 地図
創建年不明
旧社格・等級等不明
祭神不明
アクセスゆとりーとライン「白沢渓谷」から徒歩約3分
名鉄瀬戸線「喜多山駅」から徒歩約33分
駐車場 なし
その他 
オススメ度

 地図で見ると302号線沿いにあるので行きやすそうなのだけど、実際に行ってみるとすごく行きづらいところにある。302号線から脇に入った高台で、車で行く場合どこから行けばいいのか迷ってしまいそうだ。東の白沢渓谷停留所方向からしか行けないのではないかと思う。
 神社がある松坂町(まつさか-ちょう)の町名は、大字(おおあざ)川の字(あざ)ハナレ松と大字牛牧の字小坂の各一字を組み合わせたもので特に意味はない。三重県松阪市の松阪とは字が違う。ハナレ松という字の方が気になるところだ。昭和48年に成立した。



 この神社について知るための手がかりが境内の移転記念碑にあった。
「當山は西方高台絶景の地に鎮座有としも此度区画整理施行の為当所に移転せしものなり」とあるから、もともとはもっと西にあったことが分かる。ただ、それが具体的にどこだったかまでは分からない。
 協力者として「大森 旭大久手 松河戸 安井 味鋺 上飯田 船附町 川村 大字川 各講中」とあり、最後に「誕生講」とある。
 誕生講は、御嶽中興開山である覚明行者が生まれたとされる春日井市牛山町で作られた講とのことだ。
 碑には昭和四十二年四月建之とあるから、ここに移されたのがそのときということだろうか。
 横を走っている国道302号線ができたのが昭和45年だから、その工事と関係があるかもしれない。
 その後、高速道路の名古屋第二環状道ができ、302号線と交差するゆとりーとライン(名古屋ガイドウェイバス)の高架ができるなどして、このあたりの地形が複雑化した。
 そのあたりの変遷は今昔マップを見ると分かる。
 神社の注意書きには「御嶽誕生講本部教会川村」とある。川村は神社の1キロほど西にある町だ。現在管理しているのは川村の誕生講なのかもしれない。
 創建年や、誰を祀っているのかなど、詳しいことは調べがつかなかった。
 社や霊神碑、石仏を祀ったお堂などがやや雑然と並んでいる。



 木曾御嶽山(きそおんたけさん)は、古くから霊山とされ、信仰の対象となってきた。
 王御嶽(おんみたけ)とも呼ばれ、山には蔵王権現が坐すとされた。
 最初に御嶽山を開いたのは役小角(えんのおづぬ)とされている。飛鳥時代末の702年のことといい、高根道基が山頂の剣ヶ峰に御嶽神社奥社を創建した。
 774年、国内で疫病が蔓延し、光仁天皇の勅を受けて信濃国司の石川望足が登頂して大己貴命と少彦名命の二神を祀り、悪疫退散を祈願した。
 平安時代から鎌倉時代にかけて修験者の修業の場となるも、一時衰退した。
 山に登るためには75日、もしくは100日の精進潔斎をしなければならないという厳しい掟があった。それを終えた人間だけが年に一度の登頂を許され、道者と呼ばれた。その頃はまだ木曽谷の狭い地域での信仰に過ぎなかった。



 時は流れて江戸時代中期の1718年(享保3年)3月3日、尾張国春日井郡牛山村に、のちに覚明(かくめい)と名乗ることになる源助が生まれた。
 農家の息子で、家が貧しかったことから新川村土器野新田の農家で養われたという。
 魚の行商や医師の箱持ちをしたり、結婚して餅屋を開いたりしていたといった話が伝わっている。行商でよく木曾方面にも行っていたらしい。
 あるとき、何か問題を起こしたとかで(盗みを働いたという疑いをかけられたとも)土地を追われ、各地で巡礼修業を行い、行者となったという。
 そのあたりの詳しいことは分かっていないのだけど、木曽谷の村々で布教活動を行い、かなり信者を集めていたようだ。
 覚明行者が黒沢村で御嶽山を管轄していた神職の武居家を訪れて御嶽登山の許可を求めたのは1784年(天明4年)頃とされる(天明2年とする説もある)。
 しかし、その頃もまだ御嶽に登るためには100日(または75日)の精進潔斎をしなければならないという決まり事は変わっていなかったため、許可は下りなかった。
 続いて尾張藩木曽代官山村氏に許可を求めるも、ここでも拒否された。木曽一帯は木曽檜の産地として尾張藩領になっていたため、素性の知れない人間をむやみに山に入れるわけにはいけないということだっただろう。
 再三にわたって許可を求めたもののいっこうにらちが開かないということで、覚明は無許可で御嶽登山強行を決意する。それが天明5年(1785年)のことで、覚明はこのとき67歳になっていた。
 6月8日に地元住人8名ととも登り、6月14日には尾張の信者ら38名と登った。続く6月28日には約80名という大所帯での登頂を強行した。
 当然のことながら見つかってしばらく拘束されている。
 それでも懲りなかった覚明行者は、翌天明6年(1786年)にも多数の信者を連れて御嶽に登った。このときは登山道を整備することが目的だった。
 しかし、老齢での度重なる登山がこたえたのか、6月20日にニノ池畔で病に倒れ、そのまま息を引き取ることになった。
 信者たちの手で9合目の岩場に葬られた。現在その場所には覚明堂がある。



 覚明亡き後、その意志を受け継いで信者たちは黒沢口の登山道を完成させた。
 これが既成事実となり、御嶽登山は軽精進(水行)だけでできるようになっていく。
 登山口に近い福島宿を利用する信者も増えたことから、1791年(寛政3年)には庄屋が連名で武居家に軽精進登拝の請願を提出し、翌1792年には正式に許可が下りた。
 その後、武州秩父郡の普寛行者が王滝口を開いた。続いて小坂口も開かれ、尾張や関東からも訪れる人が増え、その結社としての御嶽講が多く作られ、急速に信者が全国に広がっていった。
 江戸時代末から明治初頭にかけて年間10万人以上が登山に訪れたというからちょっとしたブームだ。
 明治元年(1868年)には黒沢口の8合目に山小屋「女人堂」が建てられた。ここから上は女人禁制だったものの、1872年には他の山に先駆けて女人禁制が解かれた。
 1850年に、上野東叡山日光御門主から覚明に菩薩号が授与された。
 故郷の牛山で誕生講が結成されたのは1832年(天保3年)のことだった。
 一族の丹羽多治右衛門が児野嘉左衛門とともに積極的に布教活動を行ったという。
 丹羽多治右衛門もまた、死後に覚翁霊神の名が与えられている。



 御嶽教というと仏教色の強い教派神道(きょうはしんとう)としてやや色眼鏡で見られることがあるのだけど、ここで見てきたように御嶽山信仰としての歴史は古く、もともとは修験から端を発している。
 神仏習合に山岳信仰や民間信仰、密教的な要素も加わって、その実態はなかなかに複雑だ。
 講による活動ということで、なにやら秘密結社じみた色合いも感じられる。
 しかし、その歴史を知れば、御嶽教は非常に日本らしい信仰の形を残している親しみやすいものだということが分かると思う。すべての信仰を受け入れる何でもありという柔軟な一面も持っている。
 なので、御嶽神社にも気軽に訪れて大丈夫だ。石碑や石像が所狭しと建ち並んでワンダーランド状態になっていたとしても恐れることはない。




作成日 2017.12.18(最終更新日 2019.1.22)


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