相原郷の諏訪社と関係があるのかないのか ![]() | |
| 読み方 | くまの-しゃ(とくしげ) |
| 所在地 | 名古屋市緑区熊の前2丁目 地図 |
| 創建年 | 不明 |
| 旧社格・等級等 | 旧指定村社・十二等級 |
| 祭神 | 伊弉冉尊(イザナミ) 伊福利部連命(いふくべむらじのみこと) |
| アクセス | 地下鉄桜通線「徳重駅」から徒歩約22分 |
| 駐車場 | あり |
| 祭礼・その他 | 例祭 10月19日(?) |
| 神紋 | 五七桐紋 |
| オススメ度 | ** |
| ブログ記事(現身日和【うつせみびより】) 証言に食い違いが見られる徳重熊野社 島田緑地を守る徳重熊野社 ~愛智神話ゆかりの地巡り<2> | |
相原郷の諏訪社について調べると、相原郷の氏神はもともと熊野社で、後に諏訪社を勧請したので熊野社を神ノ倉に遷したという話が出てくる。
別の話として、相原郷には諏訪社と熊野社があって、徳重の集落に人が増えたとき相原郷から熊野社をもらったというのもある。
しかし、不思議なことに徳重(神ノ倉)の熊野社を調べても、相原郷から遷されたという話がまったく出てこない。これはどういうことなのだろう。
室町時代、足利尊氏に仕えた本多右馬允助定(ほんだうまのじょうすけさだ)は武勲を挙げて尾張国の横根郷(愛知県大府市)と粟飯原郡(後の相原郷)の地頭に任じられたと『本朝武林伝』(諏訪忠晴 1639-1695年)にある。
相原の諏訪社を勧請したのはこの本多助定という話があるのだけど、もしそうであるなら諏訪社をあらたに建てたから熊野社を神ノ倉に遷したという話とは矛盾する。
というのも、鎌倉時代に書かれた『鳴海旧記』に「鳴海奥山廻間熊野権現の宮有之」という記述があり、この頃すでに神ノ倉に熊野社があったからだ。
問題は熊野社は本当にもともと相原郷にあったかどうかということだ。確証は何もない。ただ、徳重熊野社を江戸時代は相原郷の氏子が管理していたというから、まったく無関係だったとは思えない。
でも、どうして徳重熊野社には相原郷から遷されたという話が伝わらなかったのか。それがやはり不思議で謎めいている。
徳重熊野社は古くは”イブクマノ神社”と呼ばれており、弘化四年(1847年)の鳴海村絵図には「伊吹の神社 クマノ社」とあり、『延喜式』神名帳(927年)の愛智郡伊福神社(イフノ)ではないかという説がある。
伊福神社は長らく失われた神社とされており、この説には賛同できないのだけど、何の根拠もなくそういう話が出てくるはずもない。
現在の熊野社の祭神は伊弉冉尊(イザナミ)と伊福利部連命(イフクベムラジ)となっている。
伊福利部連を祭神とした経緯もよく分からないのだけど、伊富利部氏(伊福部氏)との関係は考えられる。
古代の有力氏族の一つで、大和国葛城山から尾張国に移り住んだとされ、葉栗郡(一宮市木曽川町)に伊冨利部神社がある。
672年の壬申の乱のときに尾張国の伊冨利部氏は大海人皇子(後の天武天皇)に協力しているから、このときにはすでに葉栗郡に勢力を持っていたということになる。
その一族の一部が鳴海の神ノ倉に移ってきて神社を建てたかというと、それはちょっとどうかと思う。ここはかなり山深いところで、わざわざ暮らすような土地ではなかったからだ。
考えられるとすれば、神ノ倉の名前が示すように古くからここは神の坐す聖なる山と考えられていて、そこに神を祀ったということだろうか。移り住まなくても神を祀ることはできる。
神ノ倉の名称は熊野社から来ているというのだけど実際は逆で、古くからそう呼ばれていた可能性もある。
相原郷は江戸時代に入ってから相原村として独立するのだけど、集落としては古くからあったと考えられる。
ただ、このあたりで縄文や弥生の遺跡は見つかっておらず、古墳も発見されていないことからそれほど古い時代から人が暮らしていたわけではなさそうだ。
縄文遺跡があるのはもっと西の海岸線近くで、弥生遺跡としては善之輪遺跡や諏訪山遺跡などが知られている。古墳は大塚古墳や赤塚古墳などが新海池周辺に集中している。
神ノ倉の南の亀ヶ洞では90ヶ所ほど古窯跡が見つかっており、奈良時代から室町時代にかけて須恵器や緑釉陶器などを焼いていたことが分かっている。
伊冨利部氏は古代に鞴(ふいご)を使って鉄などの金属加工をしていた一族という説があり、”伊吹の神社”と称されていたことを考え合わせると、陶器を焼いたり金属を加工する職人集団と神社の関係も見えてきそうだ。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は明かではないが、明和八年(1771)社殿大破に依る建立の棟札を遺す。相原村の氏神として奉斎古く『延喜式神名帳』所載不明神社の伊福神社かとも伝える。『尾張志』に諏訪社、熊野社、山神社、相原村にあり、と。明治5年7月28日、村社に列し、明治42年9月1日、供進指定社となる」
『寛文村々覚書』(1670年頃)や『尾張徇行記』(1822年)などの江戸時代の地誌でも相原村に諏訪、熊野、山神があったと記す。
相原村は鳴海村の内にある一部だったのだけど、神ノ倉まで広がっていたと考えた方がよさそうだ。
徳重の集落ができたのは室町時代あたりと考えられている。そこもやはり相原村の一部ということか。
神ノ倉は江戸時代には尾張藩の御林だった。明治になって民間に払い下げられ、近年まで熊野社は鬱蒼とした林に囲まれた神社だったそうだ。今はこぎれいに整備されてしまって往事の面影は残っていない。
社殿も昭和45年の豪雨による土砂崩れで損壊してしまっため、昭和47年に鉄筋コンクリート造で建て直された。それまでは今より3メートルほど奥の高台にあったという。
主祭神について伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)の混乱が見られる。
神社の境内にある由緒碑は以前、伊弉冉尊(イザナギノミコト)としてしまっていたのだけど、間違いに気づいたようで「ギ」を消して「ミ」としている。『愛知縣神社名鑑』にも伊弉冉尊(イザナミ)とあるのでそれが正式なのだろう。
ただ、そうなるとどうして伊弉諾尊ではなく伊弉冉尊にしたのかというのも気になってくる。
総本社の熊野本宮大社(公式サイト)の祭神は家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)などとしているのだけど、ここでもいろいろ混乱があって実際のところよく分からない。
山の神というと富士山なら木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)、白山なら菊理姫(ククリヒメ)など、女神も多い。神ノ倉に熊野信仰を広める熊野比丘尼(くまのびくに)が住んでいたというから、それも関係しているかもしれない。
相原郷の氏神は本来、熊野社だったというのは間違いなさそうで、諏訪社は後から建てたというのもそうだろう。
相原郷の集落から見て徳重熊野社は4キロほど離れた山の上にある。神ノ倉を神の山と見立てて最初からこの場所に熊野権現を祀ったということはあり得る話だけど、平地ではなく丘陵地の4キロは昔の人の感覚でもちょっと遠過ぎはしないだろうかとも思う。村の氏神というのであれば、年に何度も神事や祭事があったはずで、人生儀礼の折々でも神社を詣らないといけない。そう考えるとさすがに不便すぎる。
神ノ倉の熊野を奥宮として集落に熊野の里宮を建てたというのなら分かる。しかし、集落に建てたのは諏訪社だった。そこが分からない。
そもそも熊野社と諏訪社はまったくの無関係だったということだっただろうか。そうだとすると、神ノ倉の熊野社がいつ建てられたかということで、それは最初からこの場所だったのか、途中で遷されたのかという問題も出てくる。
結局、最初の疑問に戻ってしまっただけだった。それでも、はっきりした部分と不明な点についてある程度明確になったのはよかった。
引き続き調査対象として、聞き取り調査その他で何か分かれば追記したい。
作成日 2018.11.24(最終更新日 2026.3.31)

