下飯田六所社

八幡社が乗っ取られて六所社に

下飯田六所社鳥居と境内

読み方 しもいいだ-ろくしょ-しゃ
所在地 名古屋市北区下飯田町1-1 地図
創建年 不明
社格等 村社・六等級
祭神

伊弉諾神(いざなぎのかみ)
伊弉冉神(いざなみのかみ)
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
月読神(つくよみのかみ)
素戔嗚尊神(すさのおのかみ)
蛭子神(ひるこのかみ)

 アクセス

・地下鉄名城線「志賀本通駅」から徒歩約5分。
・駐車場 あり

webサイト  
オススメ度

 志賀本通から少し北へ入ったところにある。
 北区を中心に、東区、西区の名古屋市北部に点在する六所社の中のひとつ。
 六所社の正体の分からなさはちょっと異常だ。あまりにも分からないので気持ちが悪い。
 一般的に六柱の神を祀ったからだとか、六社を集めて祀ったからとされることが多いのだけど、それはたぶん正しくない。一部そういうところがあるにしても、それだけでは全国に偏って存在するたくさんの六所社の説明がつかない。
 東海地方の場合、家康の祖先である松平の祖・親氏が奥州(宮城県)の鹽竈神社(しおがまじんじゃ)の六所宮から六所明神を勧請して六所神社を建てたことがルーツになっている可能性がある。
 関東地方の場合は、一宮から六宮まで集めた武蔵国総社の大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)の影響が大きいと考えられる。
(このあたりのことは成願寺六所神社のところで書いた)
 ただ、それでもまだ説明しきれない部分を名古屋北部の六所社には感じている。松平郷の六所神社の祭神は、猿田彦神(サルタヒコ)、事勝国勝長狹神(コトカツクニカツナガサ/塩竈明神)、岐の神(クナドノカミ)、日本武尊(ヤマトタケル)となっており、名古屋の六所社とはまったく共通項がない。
 どの時代かは分からないけど、ある時期、このあたり一帯に六所社旋風といったものが巻き起こったらしい。現存しているだけで5社くらいあり、別小江神社味鋺神社などの式内社に比定されている古い神社ですら一時期、六所明神と称していたことがあった。
 不思議なのは、それが単なる合祀といったようなものではなく、ほとんど上書きに近いような形だったという点だ。もともとどんな神社で、どんな神を祀っていたのかがまったく分からなくなってしまっている。それは、八幡神や稲荷神、神明社が流行って我もわれも流行に乗っかったというのとは明らかに違っている。
 下飯田六所社の場合、それ以前は八幡社だったころがかろうじて分かっている。しかし、本社は六所社に乗っ取られ、八幡社は脇に追いやられて、ようやく残ったといった感じになっている。ほぼ末社のような扱いで、とても元からの社だったとは思えない。
 一体、どんな力が働いたというのだろう。
 天明年間(1781-1788年)に社殿を造営した棟札が残っているくらいで、本来八幡社だったのかどうかも不明となっている。
 六所社があるのが名古屋北部限定というところに謎を解く鍵があるのだろうけど、手がかりはほとんど残されていないというのが実情だ。

 下飯田六所社のように、名古屋北部の六所社では、イザナギ、イザナミ、アマテラス、ツクヨミ、スサノオ、ヒルコの6柱の神を祀っているところが多い。しかしこれは、六所という名前に合わせるための後付けの可能性が高い。
 イザナギ、イザナミから生まれたアマテラス、ツクヨミ、スサノオはいいとして、ヒルコを入れるのはいかにも不自然だ。数合わせとしか思えない。
 ヒルコは(水蛭子)はアハシマ(淡島)とともに最初に生まれたとされながら、失敗作ということでなかったことにされてしまう。
『古事記』では葦の舟に乗せられてオノゴロ島から流されてしまったとし、『日本書紀』では三歳になっても脚が立たないので天磐櫲樟船(あめのいわくすふね)に乗せて流したとしている。
 つまり、ヒルコは神の子として認められていない。流された先で拾われて育てられたのちに神として祀られたという話は各地にあるものの、イザナギ・ファミリーの一員には入れてもらっていない。ヒルコを入れるならアハシマも入れないと変だ。
 アハシマが流されたあとどうなったかは民間伝承としていくつか説はあるものの、『古事記』、『日本書紀』には描かれていない。
 六柱の神を祀るようになったのは明治の神仏分離令以降のことで、江戸時代までは六所明神を祀っていたというのなら話は分かる。ただ、そういった話も、名古屋北部の六所社には伝わっていない。本当によく分からないというのが六所神社なのだ。ずっともやもやが残っている。

 明治5年(1872年)に村社に列格。
 大正2年(1913年)、町内にあった神明社、八幡社、熊野社、山神社、天神社、弁天社、金比羅社、稲荷社、天王社、御嶽社を境内社に合祀した。
 これは神社周辺に工場が多く作られるようになって、町内に散らばっていた神社が邪魔になってきたので一箇所に集めようということになったためだ。
 しかし、一町村一村社を基本とした明治の神社合祀政策は、この村は素通りしたということだろうか。大正時代にこれだけ無格社の小社が残っていた地区はあまり多くなかったのではないか。
 このとき6社を集めて合祀したから六所社となったという話があるけど、合祀されたのは六社どころではなく10社だった。元の八幡社をあわせると11社だ。
 八幡社についても分かっていることは何もない。そもそも、この神社はいつ六所社になったのか。そんなことすら分かっていないのは、やはり不自然としか言いようがない。

 下飯田の地名はわりと古くからあったようで、南北朝時代(1336年-1392年)の記録に尾張国山田郡下飯田郷として出てくる。
 下井田という表記もあることから、田んぼから水がわき出てくるような土地ということで井田と名付けられたという説が一般的によく言われる。北の方に上飯田がある。
 それとは別にちょっと面白い説がある。
 尼ヶ坂の片山天神社境内にあった杉の枝を、近隣の5つの村に分けたことから下枝とという村名になり、のちに下飯田(下井田)に転じたというものだ。
 片山天神にあった杉は、森に住んで暴れ回っていたという伝説の天狗が腰掛けたとされる大杉で、普通の杉ではない。残念ながらその杉は切り倒されてしまったのだけど、切り株とされるものが現在も片山神社の本殿脇に残されている。
 近くにある神社同士のつながりというのは無視できないもので、たとえ創建時期や祭神がまったく違っていても、どこかで関わっていることがある。片山神社と六所社を結びつけて考えることは無理があるとしても、一時は六所明神と称していた別小江神社や味鋺神社との関わりが六所社の謎を解く手がかりになるかもしれない。
 引き続き六所社問題は課題として残った。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

下飯田の六所社とヒルコの話

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