繰出新田(くりだししんでん)にあった神社には違いないのだけど、神社創建が新田開発の前か後かはっきりしない。 繰出新田の開発が始まったの1757年(宝暦7年)のことだ。
『愛知縣神社名鑑』は、「当新田の開拓主福井八左ヱ門の願主にて宝暦十一巳年(1761)三月、村の安全のため祀ると」と書いている。 新田開発から4年後に新田の守り神として稲荷社を建てたというのは筋が通っている。 しかし、『南区神社名鑑』は創建年を享保年間(1716-1735年)としている。 繰出新田の開発が1757年からなのでこれはあり得ないと思ったのだけど、新田開発以前にすでに干拓によって陸地化されていた土地に集落ができていたとしたら、その集落の守り神として創建されたという可能性はある。
『尾張徇行記』(1822年)は「南野村繰出新田」として以下のように書いている。
「此新田ハ宝暦七丑年、南野村福井八左衛門因願築立ケルカ、未成就ニヨリ地頭山城守殿屋敷ヘ新田築方証文共ニ差出之、其後右屋敷自普請ニ築立有之」
続けて、所有者があちこちに変わったことを記している。
どうやら1757年に南野村の福井八左衛門が開発を始めたものの上手くいなかったので山城守に差し出すことになったということらしい。この山城守というのが誰を指しているのかがちょっと分からないのだけど、後を受けた山城守が完成させたようだ。
『尾張志』(1844年)の南野村の項には、「稲荷ノ社 地先繰出新田にあり」とある。
『南区今昔物語』によると、文化七年(1810年)の棟札があり「神主 村瀬兵部清隆 庄屋 近藤喜三郎 組頭 利右ヱ門」などと書かれているという。
所有者が何度が移っているので、近藤喜三郎という人物が建てたわけではない。神主の村瀬兵部清隆の名は同じ大同町の神明社の棟札にもある。
今昔マップを見てもこの稲荷社は載っていない。明治から現代にいたるまでの地図上には描かれていない。社だけの小さなところではなく、そこそこの規模なのにどうしてだろう。
『南区の神社を巡る』は、旧住所の星﨑町字大手割2005番地が旧地ではないかと推測している。それは現在の大同特殊鋼と三井東圧の間あたりというのだけど詳しい場所は分からない。 本社の左右に秋葉社と熱田社を祀る。
大同町の歴史や大同特殊鋼などについては神明社(大同町)のページに書いた。 大同特殊鋼星﨑工場の敷地内にある稲荷社は、昭和12年(1937年)に創建されたもので、こちらの稲荷社とは関係がない。
そういうわけで、創建と遷座の経緯がよく分からないという結論となる。江戸時代から続く稲荷社というのは間違いないけど。
作成日 2018.4.20(最終更新日 2019.8.28)
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