東八幡社(中根)

中根村も今は昔

東八幡社(中根)

読み方 ひがし-はちまん-しゃ(なかね)
所在地 名古屋市瑞穂区中根町3丁目40番 地図
創建年 不明
社格等 村社・十一等級
祭神 應神天皇(おうじんてんのう)
アクセス

・地下鉄名城線「瑞穂運動場東駅」から徒歩約18分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 瑞穂区南東部に位置する中根町。江戸時代は中根村だったところだ。
『東鏡(吾妻鏡)』(1190年)に尾張国長包庄(ながね-しょう)として出てくるのが中根のこととされる。
 津田正生は『尾張国地名考』の中で、中根は長峰が約されたものと書いている。
 地形としては瑞穂台地の南東部分で、東に天白川が流れ、南西はかつて年魚市潟(あゆちがた)と呼ばれる干潟だった。天白川を挟んで東が星﨑荘、南は年魚市潟を挟んで松巨島 (まつこじま)と呼ばれる大きな島で、千竈荘(ちかましょう)だった。
 長包庄の北東が八事荘で、山崎川(川名川)の西に井戸田荘があった。
 川にも干潟にも八事の山にも近いということで人が住むのに適した場所だったのだろう。縄文時代前期の大曲輪貝塚(瑞穂競技場)や瑞穂古墳群、井戸田古墳群などが見つかっており、古くからこの地で人が暮らしていたことが分かっている。
 戦国時代には中根城が築かれた。中根北城、中根中城、中根南城の3つの城をあわせて中根城と呼んでいたようだ。
 その中の中心だったのが中根南城で、信長の異母弟の越中守信照が城主を務めていた。
 南城は現在、観音寺があるところにあったとされる(地図)。
 中城は丸根町1丁目(地図)に、北城は今の弥富小学校(地図)にそれぞれあったという。
 南城は台地の南の高台にあり、中城と北城の間には平針街道(または鎌倉街道)が通っていたとされる。
 戦略的に重要な場所に位置していたと考えられる。

 この東八幡社は中根南城の北東にあることから、城の守護社とされたようだ。
 創建時期については不明とされながら城の守護社だったとしたら戦国時代にはすでにあったということになる。
『尾張志』(1844年)に
「中根村 八幡ノ社 野平にあり」、『尾張徇行記』(1822年)には「覚書に平野八幡」として出ている。
『寛文村々覚書』は1655年から1658年に行われた調査を元にした記録なので、それ以前にあったということだ。当時は平野八幡と呼ばれていたようだ(あるいは八幡宮とも)。
 明治10年(1877年)、字牛山にあった東山神社と、字大根山にあった白山権現社を八幡社に合祀して、東八幡社と名を改めた。西に八幡社があったので東八幡にしたということのようだ。
 中根南城があった観音寺の隣には北条八幡社がある。

 東八幡社には棒の手と神楽(かぐら)が伝わっており、祭りの日に奉納されている。
 棒の手というのは農民が自衛のために行っていた武術がのちに芸能化したものと考えられており、愛知県で盛んに行われている。名古屋市内よりも周辺の尾張旭市や長久手市、春日井市、豊田市の方が盛んのようだ。
 東八幡社に伝わるものは加賀国の本田遊無を始祖とする見当流棒の手と呼ばれるもので、名古屋市の無形民俗文化財に指定されている。
 神楽は明治以降、笛と太鼓のお囃子(はやし)だけになり、戦後いったん途絶えてしまったものを氏子たちが復活させ、今に伝わっている。
 もともとは熱田神楽(宮流神楽)と呼ばれる巫女神楽だったとのことだ。
 馬の塔(おまんとう)は本来馬を飾り付けて奉納するもので、その道中は古式に則り警固(警護)の隊列が付き従ったことから警護祭りとも呼ばれる。
 馬を奉納することは大変なので形式化され、馬に見立てたものを飾り立てるなどして奉納される。
 東八幡社の例大祭は10月15日に近い日曜日に行われている。

『尾張名所図会』に「中根村鼎池堤畔の秋萩」と題された絵図がある。
 池の畔に咲く萩の花を着物姿の男女が愛でている様子が描かれている。
 現在の中根はそんな風流な場所ではないのだけど、縄文時代から長い歳月を経て今があると思うと、なかなか感慨深いものがある。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

中根城ゆかりの東八幡社

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