豊臣秀吉は尾張国愛知郡中村郷で生まれたとされている。 生まれたのは1537年もしくは1536年頃とされるもはっきりしない。 父親は足軽とも百姓ともいわれ、それもまた明かではない。母親の再婚相手との間にできた子供という説もある。 一般的に秀吉は百姓から天下人に上り詰めたという言われ方をする。百姓というのは必ずしも農民のことではなく、職業不詳の人々も含まれる。もし秀吉が普通の農民の息子ならあそこまで出自を隠そうとはしなかったのではないか。 ルイス・フロイスは『日本史』の中で、「若い頃は山で薪を刈り、それを売って生計を立てていた」と書いている。 『日本教会史』では木こりとなっている。 一説によると、端柴売りだったのではないかという。端柴(はしば)というのは、たき付けに使う小枝のことで、それを山で拾ってきて売り歩いていたというのだ。木こりは当時農民より身分が低かったようだから、柴を拾って売っていたとなれば身分は更にその下ということになる。 のちに名乗ることになる羽柴秀吉は、丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつもらったというのは『太閤記』に出てくるエピソードで、端柴売りから来ているという説がある。秀吉特有の自虐的なユーモアセンスを考えるとそちらの方がしっくり来る気もする。中村に定住して農作業をしていたというのは、のちの秀吉像から考えてあまり似つかわしくない気がする。
若くして中村を飛び出し、向かった先は今川が支配する遠江だった。そこで今川の家臣の家臣の家臣になる。親分の子分のその子分のそのまた子分というから、相当な下っ端だ。 ただ、目端が利いたのだろう。今川家を見切った秀吉は尾張に戻って信長の小姓として仕えることになる。 1554年というから信長21歳。18歳で家督を継いだ信長が尾張を平定して間もない頃のことだ。秀吉このとき17歳。信長の将来性を見込んだ判断だとしたら秀吉はやはり人を見る目があったということになる。 おね(ねね)と結婚したのは24歳のときだった。おねの父親は織田家の家臣・杉原定利で、のちに浅野長勝の養子となる。藤吉郎との結婚を母親の朝日は猛反対したという。どこの馬の骨とも知れないとはこのことだ。 それでもおねは秀吉との結婚を選び、生涯正室として秀吉と苦労を共にすることになる。 晩年を京都の高台寺(web)で秀吉を弔いながら過ごし、そこに眠ることになった。
1590年。小田原征伐により秀吉は事実上の天下統一を果たし、ここに戦国時代は終結した。 戦があるから戦国時代というわけではなくて、戦国とは文字通り国と国が戦っている状態を表す概念だから、秀吉に逆らう大名がいなくなった時点で戦国時代は終わったと見ていいと思う。関ヶ原の戦いや大坂の陣は戦国とはまた別のものだ。 時代区分でいうと、信長・秀吉時代が支配した時期を安土桃山時代とする(1573年–1603年)。1603年は江戸幕府が開かれた年で、戦国時代の始まりを1467年とするのは、その年に応仁の乱が始まったからだ。 時代区分についてはいろいろ説があって一概には決められない部分もある。 小田原で鎌倉の鶴岡八幡宮(web)を訪ねた秀吉は、源頼朝の木像に向かってこんなふうに話しかけた。 小身から身をおこして天下統一を成し遂げたのは貴殿と自分だけだから、我々は天下の友だちだ。でも貴殿は東国の武士で身分もあり、従う者も大勢いた。それにひきかえ自分は氏も系図も持たな卑しい身分の出だ。だから自分の勝ちだ。そう言って木像の肩を叩いたという。 半分以上は後世の作り話かもしれないけど、私はこのエピソードが好きだ。
1598年。世に名高い醍醐の花見が開催される。全国から700本もの桜を醍醐寺(web)に集め、秀頼や奥方たちを集めて一日だけの盛大な花見を開催した。 その同じ年、秀吉はこの世を去る。62歳だった。死因についてはよく分かっていない。 遺骸はしばらく伏見城に置かれ、方広寺の東にある阿弥陀ヶ峰の麓に社が作られることになった。 翌1599年、遺命によりにより遺骸は阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、麓の社は豊国神社と名付けられた。 秀吉は死後、神になることを願った。新八幡を名乗るつもりだったようだけど朝廷から許可が下りず、豊国乃大明神(とよくにのだいみょうじん)の神号が与えられることになる。 大明神は神仏習合の神のことで、豊国は日本神話の豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらの ちいおあきのみずほのくに)から取られたとされる。天と地の間にある地上、日本のことを指す美名だ。 秀吉は神となったため、葬儀は行われなかった。
大坂の陣で豊臣家が滅ぶと、家康は京都の豊国神社の廃絶を決める。秀吉を神として祀ることを禁止したのだ。 おねのたっての願いで社殿だけは残されることになったものの、江戸時代を通じて荒れるに任せたという。 明治天皇が大阪行幸で訪れた際、国に恩のあった人間に対してそんな扱いはよくないと再興を命じたのは1868年、明治元年のことだった。 秀吉の3回忌に長浜町民が建てた長浜の豊国神社も同じ時期に取り壊し命令が出されて、長く町民の家庭で守られたあと、明治31年(1898年)になってようやく再建がなった。 大阪城内(web)にある豊国神社も、明治天皇の発案で、明治元年に建立の沙汰が下され、明治12年(1879年)に創建された。 ちなみに、名古屋と京都は「とよくに」で、大阪と長浜は「ほうこく」と読ませる。
名古屋の中村にある豊国神社が建てられたのは、明治18年(1885年)のことだった。 生まれ故郷に秀吉を祀る神社がないのはいけないということで、地元の有志が集まり、県令(今でいう県知事)にかけあって創建されることになった。 創建時はどんな感じだったのか、写真でも見たことがないのでよく分からない。 『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「明治16年7月創立の許可。明治18年8月18日造営完工鎮座祭を斎行する。明治43年11月18日皇太子殿下行啓、大正12年12月19日、山階宮武王殿下、(以下略)」 皇室や旧大名家が参拝に訪れたり、寄進をしたといったことが書かれている。昭和10年の祭神生誕400年祭に名古屋市は500円を寄附している。
この場所が中村公園として整備されたのは明治34年(1901年)のことだった。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、まだ上中村集落があるだけで、周囲は田んぼが広がっていたことが分かる。描かれている鳥居マークは八幡社のものだろう。卍マークは常泉寺と妙行寺のものだ。妙行寺の場所が加藤清正の生家だったと伝わっている。 大正9年(1920年)の地図に、中村公園と豊国神社の鳥居マークが現れる。公園の手前まで市電が通った。 公園の周りが区画整理されるのは昭和に入ってからだ。
派手好きの秀吉からするとこぢんまりして質素な造りの神社は少し物足りないかもしれない。京都の豊国神社のような立派な社殿はない。 それでも秀吉を慕う人は多く、公園の中にある小さな神社にもかかわらず参拝者は多い。 参道の入り口に建つ大鳥居は、大正10年(1921年)に愛知郡中村が名古屋市に併合されたのを記念して、昭和4年(1929年)に造られたものだ。 鉄筋コンクリート性で高さは24メートル。名古屋のあらたなシンボル誕生ということでできたときは大勢の人が集まったという。 秀吉が生まれた場所は実ははっきりしていない。出自も定かではないくらいだからそれも仕方がないことだ。本人が言うのだから中村ということは間違いないのだろうけど、必ずしも豊国神社のあるあたりと決まっているわけではない。 それでも、神社の隣には生誕碑が建ち、公園内に秀吉清正記念館(web)がある。 毎年5月中旬に太閤祭が行われ、出世稚児行列や神輿が町内を練り歩く。
露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速(なにわ)のことは 夢のまた夢
秀吉が残したとされる辞世の句に私たちは何を思おうか。
作成日 2017.2.20(最終更新日 2019.4.13)
|