日清戦争(1894-1895年)以降の戦没者を祀るために、大正12年(1923年)に建てた南陽忠魂社を前身とし、昭和31年(1956年)に南陽神社として創建された。 そのあたりの経緯は『愛知縣神社名鑑』に詳しい。 「町内の関係者にして国家公共のために特別の功績を挙げられたる人々の偉勲を敬仰し後世悠久に亘り、その神徳を崇拝し奉らんと町内住人並に遺族の切なる願望により社地として九百五十余坪の譲与、社殿その他主要建物の建築費の寄附、一般住人の労力奉仕ありて当神社の創立をみる。そもそもの前身は大正12年5月、南陽忠魂社を村民の総意により創祀したが戦雲止むなく祭神増祀の一途をたどり昭和19年5月10日新社殿を建立するも同年12月8日の南海地震、昭和20年3月12日の空襲により被災する。戦後は町より遺族会の管理となり、昭和30年10月10日名古屋市に町村合併に際して南陽神社奉賛会を作り、忠魂社を南陽神社と改称し、昭和31年12月14日承認になる。昭和34年9月26日、伊勢湾台風により社殿等に損傷を受け、昭和37年10月復旧する。同台風による水害のため町内の犠牲の方199名の殉難者慰霊碑を建設し、永く冥福を祈る。48年5月5日創建五十周年に際し、待望の拝殿を造営し、記念大祭を盛大に斎行した。58年9月29日、十等級に昇級する」
『港区の歴史』によると、大正12年5月10日に南陽村より出征した日清戦争以降の戦没者の霊を靖国神社より拝受して、村役場の近くの大字福田字七春二に南陽忠魂社を建てたのが始まりで、昭和30年10月10日に改称したとある。 南陽村から出征した兵士の霊を靖國神社から迎えたというのは少し驚いたというか意外に感じた。そんなふうにして建てられた忠魂社は他にも多いのだろうか。
靖國神社(web)はそもそも、戊辰戦争や西南戦争など国内の争いで命を落とした人を祀るために建てられたもので、第二次大戦の軍人を祀るために建てた神社ではない。明治維新で活躍した吉田松陰や高杉晋作、坂本龍馬といった幕末の志士たちも祀られている。 戦後にA級戦犯と呼ばれる人たちを合祀したことで靖国神社本来の目的が歪められてしまった面がある。昭和天皇もA級戦犯合祀には反対していたという。
「靖国の名にそむきまつれる神々を思へばうれひのふかくもあるか」
これは昭和天皇が詠んだ未発表の歌だ。
祀られている魂に罪はない。国のために命を落とした人たちで、好き好んで戦をしたわけではない人がほとんどだろう。 たとえば日清戦争における戦死者は病死も含めると約1万4千人とされている。日露戦争では8万4千人とも11万8千人ともいう。 2004年調べで靖国神社の祭神は246万6532柱とされる。 我々はこの現実を受け止めるしかない。
全国にそれぞれ護国神社や忠魂社などがある。 そのあたりのことについては愛知縣護國神社や忠魂社(中志段味)のページに書いた。
この近くに福田新田を開発した鬼頭景義とその子孫が暮らす屋敷があった。屋敷は第二次大戦の空襲で焼けてしまったものの、長屋門は焼け残ったため、神社の北に移築して保存している。 鬼頭屋敷は明治天皇が江戸へ行った明治元年と明治2年にそれぞれ休憩所として立ち寄ったところだった。明治元年に江戸は東京とあらためられた。 現在の南陽神社があるのは南陽村の役場があった場所で、南陽忠魂社は役場の横にあった。鬼頭家の屋敷もこの村にあった。 明治元年、2年といえばもちろんまだ南陽忠魂社は建っていない。日清戦争が起きるのは、25年後のことだ。 鬼頭景義と明治天皇と南陽忠魂社と空襲というまったく無関係なふたりの人物とひとつの神社とひとつの歴史的出来事が時代を超えてこの一点で交わっている。 この先の未来で、またあらたな要素がここに加わる可能性もある。戦争はもうやめておいた方がいいと分かっていても人類はそこから逃れられないのかもしれない。
多くの人が靖國神社や護国神社や忠魂社といったものにある種の拒否反応を起こす。それは仕方がないことで当然といえばそうなのだけど、過去はなかったことにできないわけで、残された私たちは過去をなかったことにしない責務がある。 坂本龍馬は格好良くて第二次大戦の兵士からは目を背けるというのも違う。 我々は彼らが戦いの中で獲得した平和や権利といったものを当たり前のように受け取っているけど、何の代償も払わず受け取っていいものではない。少なくとも目を背けてはいけないものだ。 今の平和がたとえ表面的なものに過ぎないとしても、私たちはそれをありがたいと思わねばならない。 自分が祀られる側になったとき何を思うだろうと想像してみれば、自分がこちら側で何をしたらいいか分かるはずだ。 護国神社や忠魂社などを参拝することはささやかなことではあるけど大事なことだと思う。
作成日 2018.8.13(最終更新日 2019.7.29)
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