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正及神社


名古屋で家康を祀るもうひとつの神社



正及神社

読み方しょうきゅう-じんじゃ
所在地名古屋市瑞穂区田辺通2丁目2 地図
創建年1716年(江戸時代中期)
旧社格・等級等村社・九等級
祭神徳川家康(とくがわいえやす)
アクセス地下鉄桜通線「瑞穂区役所駅」から徒歩約25分
地下鉄名城線「総合リハビリセンター駅」から徒歩約23分
駐車場 なし
その他例祭 10月17日
オススメ度**

 鳥居の外から見える風景に軽い衝撃を覚えた。なんだ、ここは、と。
 参道に覆い被さるように左右の草木がジャングル状態になっている。それは60メートルほど先の拝殿前まで続く。
 多くの神社を巡ってきたけど、まだまだ見たこともないような神社がたくさんあるのだろう。
 それにしてもここは神社の風景としては唯一無二ではないだろうか。拝殿の裏に回ると本殿が解放されていて、東向きのため午後に訪れると後光が差しているように見えるのも印象に残った。
 歴史がどうとか祭神がどうとかを超越して、ここはいい神社だと思った。ちょっと忘れがたい。

 創建のいきさつや歴史については『愛知縣神社名鑑』がほとんど教えてくれる。
「社伝に享保元年丙申(1716)10月17日、尾張藩主第六代徳川継友の命により藩士鍵谷伝右ヱ門が勧請創建する。伝右ヱ門毎年日光東照宮に参拝する奇特な士で同士相謀らいて風光明媚な社地を撰び鎮祭するという。代々の藩主崇敬あつく祭礼には奉幣あり。享保十年、竹腰山城守正武城内鎮護のため社祭す。天明6年(1786年)竹腰山城守勝起は衣冠束帯にて社祭すと。明治5年、村社に列格。昭和32年、正及社を正及神社に改称する。同年、九級に昇級する。昭和59年、拝殿を鉄筋コンクリートで改築する」

 江戸時代中期の1716年。尾張藩6代藩主の徳川継友が尾張藩士の鍵谷伝右ヱ門に命じて、日光東照宮(web)から家康の分霊を勧請して建てたのがこの正及神社だ。
 正及(しょうきゅう)という熟語は知らないけど、正しさを及ぼすといった意味で名付けたのだろう。
 鍵谷伝右ヱ門というのは著名な藩士ではない。毎年、日光東照宮に参拝していたという点が藩主から評価されたのか、もともと神社関係の役職についていたのか。
 奇特(きとく)というのは、最近は変わり者といったような間違った意味で使われがちだけど、本来は行いや心がけなどがすぐれていて褒めるに値するという意味だ。あなたは奇特な人ねと言われて怒るのは間違いで喜ばないといけない。
 古くは「きどく」で、神仏の持っている超人間的な力や不思議な霊力といった意味もある。
 現在、神社があるあたりは住宅街で風光明媚とはいえないのだけど、西を山崎川が流れる瑞穂台地の上ということで、江戸時代は眺めのいいところだったのではないだろうか。
 近くには伊東信一の別荘として建てられた東山荘(国の登録有形文化財/web)もある。
 神社裏手にある邸宅は、暮雨巷(ぼうこう)会館(web)と名付けられており、現在はUFJ銀行の迎賓館となっている。
 もともとは江戸時代中期に前津(中区大須)に建てられた邸宅を俳人の久村暁台(くむらきょうたい)が買い取ったもので、暮雨亭と名付けられた茶室には与謝蕪村なども訪れたという。
 大正10年(1921年)に現在地に移され、昭和22年(1947年)に東海銀行が譲り受け、久村暁台の俳号である暮雨巷と名付けた。
 東山荘は名古屋市に寄贈されたため、一般も利用できるようになっているものの、暮雨巷はUFJのものなので入ることはできない(申し込めば見学はできるようだ)。

 尾張藩6代藩主の継友については古渡稲荷神社のところでも少し書いた。
 尾張藩から徳川将軍を出す最大のチャンスを逃した藩主として名を残すことになってしまった尾張の殿様だ。
 しかし、尾張藩での評判もよくなかったようで、もし継友が将軍になっていたら日本はまずいことになっていたかもしれないので、吉宗になってよかったかもしれない。
 とはいえ、尾張藩からはついにひとりの将軍も出すことができなかったことを考えると惜しいチャンスを逃したのは間違いない。
 この継友の後を継いだのが異母弟の宗春で、尾張藩最大のヒーロー殿様ということになる。

 名古屋で徳川家康を祀る神社としては、名古屋東照宮がある。
 尾張藩初代藩主の義直が父である家康の三回忌にあわせて創建したのが名古屋東照宮だ(1619年)。
 もともとは名古屋城(web)内の三の丸に亀尾天王社(現・那古野神社)と並んで建っていた。
 境内は3,600坪あり、権現造の本殿をはじめ、極彩色で塗られた華麗な楼門や唐門などが建ち並び、第二次大戦の空襲で焼けるまでは国宝になっていた。
 久能山東照宮(web)も日光東照宮も、もともとはそんなに派手な神社ではなく、三代将軍の家光が豪華絢爛に仕立て直したもので、家光は尾張の東照宮を見て、負けてなるものかと対抗心を燃やして久能山や日光の東照宮を建て直させたのかもしれない。
 正及神社が当初、どの程度の規模だったのかはよく分からない。継友はケチで有名だったから、そんなに金は出さなかったと思う。
 現在のコンクリート造の拝殿は昭和59年に建てられたものだから、それ以前のものを見たかった。

 徳川家康は現在の名古屋の基礎を築いた恩人といえる(ブラタモリ/webの名古屋編を観た人は知っている)。名古屋生まれの信長や秀吉は、早々に名古屋を出てしまったため、名古屋にこれとったものを残していない。一方の家康は名古屋に住むことはなかったものの、名古屋城や城下町をほとんど一から作ったのだから、やはり第一の功労者といいうべきだろう。
 名古屋では家康も入れて郷土三英傑としていて、他県からは家康は名古屋の人間ではないじゃないかと言われがちなのだけど、こういった事情を知っていれば家康は紛れもなく郷土英傑のひとりなのだ。家康を祀る神社の二つや三つあっても罰は当たらない。
 正及神社は名古屋でもほとんど知られないから、もう少し情報発信をしてもっと知られるようになっていいと思う。


作成日 2017.6.22(最終更新日 2019.3.21)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

正及神社はジャングル参道と本殿の光景が印象的

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