大手町(おおてまち)にあるから大手神社という社名で詳細は不明。 江戸時代のこの場所は熱田前新田の南端で、干拓堤防の大手堤があったことから大堤(おおて)と呼び習わしていたのが大手になったとされる。 あるいは、海から名古屋に入る場合の大手門のような場所だったことが由来ともいう。 かつての小碓村に大手堤という字名があったことからすると、やはり大手堤が略されたと考えた方がいいだろうか。 熱田前新田の一部より大手町として成立したのは昭和23年(1948年)のことだ。
『尾張志』(1844年)の熱田前新田の項にこの神社は載っていない。 港区のページによると、民間信仰のひとつとして干拓の護神が祀られたのが始まりという。 熱田前新田は尾張藩主導で尾張藩熱田奉行の津金胤臣によって1800年から1801年にかけて開発された干拓新田だ。 そんな場所に江戸時代の村人が勝手に社を建てることが許されたかどうか。許可を得て建てたのだろうか。 海辺の干拓新田はひとたび暴風雨に襲われて堤が切れてしまうと海水に浸かって大変なことになる。その後何年も作物が穫れないということもあったようだ。 そういうことを考えると、神であろうが何であろうが、無事であってほしいという願いを込めて神仏を祀ったのは切実なことだったと想像できる。ぼんやりとした願い事などではなく生き死にに関わってくる。 干拓の守り神として祀ったというのであれば、祀り始めは江戸時代ということになるだろうか。もしくは、明治に入ってからか。
米が不作だった年に熱田前新田の村人は観音を祀った。それが明治になっても残っていて、何故か夜泣き封じの観音さまといわれ、村人の信仰を集めたそうだ。 境内にある永代常夜灯は、熱田前新田の地主が五穀豊穣を願って熱田社に奉納したもので、中川運河ができたときにここに移された。
いつ誰がどんな神を祀ったとも知れない社が今では神社と呼べるものとなって受け継がれている。 考えてみると、歴史の浅い土地だけど、港区の神社はどこも重い。受ける印象としての重たさはあまり感じないのだけど、苦難の重みといったものは確かにある。 人の暮らしは常に災害とともにあるわけで、願いや祈りが消えない以上、寺社は在り続けるだろう。それがなくなってしまえば、日本は今とはまったく別の国になってしまう。
作成日 2018.7.8(最終更新日 2019.7.21)
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