この神社の元を辿れば、現在地の北東約300メートルにあった八幡社が始まりだった。 場所は旧住所でいうと田代町字楠122、現住所でいうと春里町2丁目で、本山パークハウス壱番館(地図)があるあたりだ。今昔マップの明治中頃(1888-1898年)以降の地図に鳥居マークが描かれているので、おおよその位置を知ることができる。 この神社について『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「鎮座の地は天文年中(1532-1554)に織田備後守信秀が築城の末森城趾東西百間、南北八十間という、その子信行在城の時兄信長に攻められ廃城となる。城の北に白山社あり。天文二十二年(1553)5月3日信行の勧請なり。城破れて白山社のみ残り、近隣の崇敬あつき人々により維持された。末森村(田代町字楠122番地)に應神天皇を祭る当村の本居神とする八幡社あり。永禄年中(1558-1569)天野伊豆守重次修造。明治5年10月、村社に列格する。明治40年10月26日、供進指定となる。昭和11年9月15日楠の旧社地より現在地に遷座白山社も合せ祀る。昭和24年10月18日、八幡社を城山八幡社と改称、更に昭和31年7月25日、城山八幡宮に改む」
相変わらず文章が分かりづらいので、公式サイトの縁起などをあわせて説明するとこうだ。 ここはかつての末森村で、本居神として八幡があった。場所は上に書いたように旧田代町楠で、現在地の300メートルほど北東だった。 現在地は織田信秀が築いた末森城があった場所で、その息子で信長の弟の信行(信勝)が城主を務めていたとき、城内の北側に白山社を勧請した。 信行は信長との戦いに負けて、末森城は廃城となった。しかし、白山社は残り、末森村の人たちによって守られた。 明治41年(1908年)に、末森村にあった浅間社、山神社、一ノ御前社、白山社を八幡社に合祀した。 明治45年(1912年)、末森城の跡地が八幡社の所有となる。 昭和11年(1936年)、旧社地から現在地に八幡社を移した。 昭和24年(1949年)に城山八幡社と改め、昭和34年(1959年)に城山八幡宮と改称した。 以上がおおまかな流れだ。祭神に八幡、浅間、山神、白山の神が同居しているのはこういう経緯があったことを知れば納得がいく。
江戸期の末森村の神社については以下のように書かれている。
『寛文村々覚書』(1670年頃) 「社 五ヶ所 内 八幡 白山 仙現 一宮 山之神 社内弐町壱反歩 前々除 当村祢宜 理右衛門持分」
『尾張徇行記』(1822年) 「府志曰、白山祠在末森村、永禄年中天野伊豆守重次建之 八幡祠在同邑祢氏神 浅間祠一宮祠倶在同村」 「社人松永利太夫書上帳ニ、正八幡社内松林一町三段三畝十歩御除地 白山権現社内松林四反二畝御除地、佐久間豊後守建之 浅間社内松林六町、児宮社内松林五畝、山神社内松林一反一畝二畝共ニ御除地」
『尾張志』(1844年) 「八幡社 末森村にあり應神天皇を祭る當村の本居神とす永禄年中に天野伊豆守重次修造すといへり社人を松永東太夫と云」 「白山ノ社 同村八幡社より未申の方古城址の北に屬てあり菊理媛命を祭る當社創建の願主は當城主織田勘十郎後に武藏守信行といふ信勝にて天文二十二年癸丑五月三日に勧請あり此處の八幡ノ社東永政陳(マサノブ)か家に當社御正體の古臺座一牧あり其裏書に勧請之年月日及執事の姓名等くはしく見えたる(後略)」 「浅間社 八幡社より東南三丁にあり 木花開耶姫命を祭るといへり」 「一ノ御前ノ社 八幡社より東南の方にあり祭神知られす」 「山ノ神ノ社 宇賀ノ神を祭れり」
『張州府志』では白山社は永禄年中に天野伊豆守重次が建てたと書いていると『尾張徇行記』はいっている。永禄は1558年から1570年だ。 白山社人の書上では「佐久間豊後守建之」とあるというのだけど、これは創建ではなく修理のたぐいだろうか。佐久間豊後守がどういう人物なのかは分からない。 『尾張志』は天文22年(1553年)に織田信勝(信行)が白山を勧請したと書いている。 同じく『尾張志』は八幡は永禄年中に天野伊豆守重次が修造したとする。この場合の修造は創建ではなく修理ということだろう。 『尾張名所図会』(1844年)も織田信勝が白山から勧請した記録が残っているといっているので、白山社を勧請したのは織田信勝だったと考えてよさそうだ。 八幡社についてはいつ誰が勧請したのかはっきりしない。本居神というくらいだから、末森村の成立当時からの社だったと考えられる。 浅間、一之御前、山神などについても詳細は不明だ。 織田信秀が1548年(天文17年)に末森城を築いたときはすでに末森村があったかどうかがひとつポイントとなる。
末森のこのあたりは、東に続く東部丘陵の西北の縁に当たる。 末森古墳群と呼ばれる6世紀後半の古墳がいくつか見つかっており(昭和に入って消滅)、古墳時代後期から鎌倉時代初期にかけて多くの窯が築かれた場所でもある。 朝鮮半島から伝わった技術で須恵器を焼くための登り窯が必要で、斜面が多い地形のこのあたりが適していたと考えられている。 末森の「すえ」は須恵器(すえき)や陶器を表す「陶(すえ)」もしくは帰化人の陶部(すえべ)から来ているのではないかという説もある。 江戸時代に高針道として整備される東西の道は古くからあったとされ、集落は早い時代にできていたかもしれない。 信秀は東の今川への備えとして、末森に城を築いて、古渡城(現在東別院になっているところ)から移った。それが1548年のことだ。 城がある場所は標高43メートルほどの小山で、古くから末森山と呼ばれていた。これももしかしたら古墳かもしれない。 信長の生まれは1534年で、物心つく前から那古野城の城主とされた。 生まれたのは那古野城とされていたのだけど、近年の研究で勝幡城生まれ説が有力視されている。 信長は1546年に古渡城で元服し、1547年に初陣を飾っている。 1552年に信秀が死去すると、家督を継いだのは信長で、末森城は信行の実の弟の信勝に譲られた(信秀生前に信勝に末森城を与えたという説もある)。 品行方正で出来のよかった信勝が織田家では有力な後継者と目されており、古くからの重臣だった柴田勝家や林秀貞なども稲生合戦(1556年)では信勝側について信長と戦っている。 信勝が末森城内に白山社を勧請したのは1553年というから、末森城主になってほどなくのことだ。古城図を見ると本丸の北に白山社が描かれている。今の城山八幡本殿の裏手あたりだろうか。 戦国時代の若き武将、信勝は何故、白山神を城の守り神として祀ったのか?
信長の織田家はもともと越前の劔神社(web)の神官の家系とされる。福井県丹生郡越前町にあり、氣比神宮(web)に次ぐ越前国二宮の由緒ある古社だ。 越前といえば白山が近く、織田家にとって白山神は近しくて頼りになる存在だったのだろう。 ルイス・フロイスは著書『日本史』の中で、信長が語ったこととしてこんなことを書いている。 「予は伴天連らの教えと予の心はなんら異ならぬことを白山権現の名において汝らに誓う」 キリスト教の教えと自分の考えは何も変わらないことを白山権現の名にかけて誓うと言ったというのだ。 信長、あるいは織田家にとって神といえば白山権現のことだったのかもしれない。だとすれば、信勝が城内に白山権現を祀ったのは自然なことに思える。 信長は桶狭間の戦いに向かう途中、榎白山で戦勝祈願を行い、勝利の後に剣を奉納している。 織田家に限らず、白山権現を信仰していた戦国武将は少なくなったようで、真田昌幸幸村親子で知られる真田一族も白山権現を守護神としていた(NHK大河ドラマ「真田丸」の中で白山大権現の軸が架かっていたことに気づいた人もいるだろう)。 信勝は信長との後継者争いに敗れ、末森城は廃城となった。1557年、信勝享年22。
境内の裏手に、連理木(れんりぼく)と呼ばれるアベマキの古木がある。高さ15メートル、幹周り4メートル、名古屋市内最大のアベマキとされる。 幹の途中から一度別れて、その後再びひとつになっていることからそう名付けられ、夫婦円満、良縁祈願のご神木とということになっている。 城山八幡宮は、高牟神社(今池)、山田天満宮とともに恋の三社めぐり(web)のひとつになっていることから、若い女性の参拝客も多い。
織田信秀、信勝親子の城跡に建つ八幡神社。その本体は八幡社なのだろうけど、あまり八幡神社らしさは感じない。寄り合い所帯ということもあって、もともとの八幡の気のようなものは薄まっているといえそうだ。 参拝に訪れた際には、信勝が祀った白山権現のことを思い出してあげると少しは供養になるかもしれない。
作成日 2017.2.17(最終更新日 2019.2.9)
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