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忠魂社(中味鋺)

戦後は続く

中味鋺忠魂社

読み方 ちゅうこん-しゃ(なかあじま)
所在地 名古屋市北区中味鋺1丁目 地図
創建年 1940年(昭和15年)
旧社格・等級等 不明
祭神 不明(戦没者)
アクセス 名鉄小牧線「味鋺駅」から徒歩約33分
駐車場 なし
その他  
オススメ度

 戦没者を祀る神社としてよく知られているのが東京の靖國神社(web)だ。幕末の志士や明治維新で命を落とした人たちを祀るために明治2年(1869年)に招魂社として創建された。
 そういった戦没者を祀る招魂社が全国で建てられるようになり、昭和14年(1939年)に「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」により、一斉に護國神社と改称された。
 その中で内務大臣が指定した護國神社があり、それらを内務大臣指定護國神社または指定護國社といった。これは戦前までの近代社格のひとつで、当初34社だったのが戦時中に51社になった。
 戦後は独立の宗教法人となり、指定護國神社は東京都と神奈川県を除く道府県に建てられた。
 愛知県の場合は愛知縣護国神社がそれに当たる。
 尾張藩最後の藩主となった徳川慶勝が川菜村(昭和区)に旌忠社を建てて戦死した藩士を明治2年(1869年)祀ったのが始まりで、昭和14年(1939年)に愛知縣護国神社と改めた。

 こういった忠魂社ほど大がかりなものではなく、忠魂碑も全国各地でたくたん建てられた。増えたのは日露戦争(明治37-38年)以降のことだ。日露戦争前は招魂碑ともいっていた。
 戦前までは在郷軍人分会が募金で資金を集めて小学校の校庭などに建てていた。
 日中戦争が始まると昭和14年(1939年)に大日本忠霊顕彰会が発足して、各市町村に忠魂碑が建てられた。
 現在それらの多くは神社の境内に移されている。
 忠魂社として神社にまでなる例はあまり多くない。名古屋市内では中川区東春田の富田忠魂社とここ北区中味鋺の忠魂社くらいではないかと思う。小規模のものは他にもあるかもしれない。
 富田忠魂社は町内会主導で大正6年(1917年)に富田中学校に建てられたもので、戦後外に移して今も町内で管理維持している。

 中味鋺の忠魂社はもともと岡田家の邸内に建てられたものだ。
 昭和15年(1940年)というから、皇紀二千六百年の年に当たる。境内には「皇紀二千六百年建立」と彫られた石碑が建っている。
 神武天皇が橿原宮で即位した年から数えて二千六百年目に当たるということで、日本国内で大々的な祝賀行事が行われた。戦時中ということで国威発揚が主な目的ではあった。
 岡田家の邸内から現在地に移されたのは昭和49年(1974年)のことだ。
 社は小山の上にあり、もともとこういう地形だとしたらここは古墳の可能性がある。味鋺はかつて百基を超える古墳があったとされるから、これもそのひとつかもしれない。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、後に神社が建てられる場所は四角で囲まれた何かの記号が描かれている。墓地の記号ではなさそうだけど、形がはっきりせずよく分からない。
 1960年代以降は中味鋺も宅地化されてぽつぽつ家も建ち、神社の場所は畑になっていたことが分かる。
 同じ年に忠魂碑も建立された。
 境内には神道式の墓碑が三基あり、もともと岡田家では戦死したこの三人を祀っていたようだ。
 現在は日露戦争から第二次大戦までで命を落とした戦死者を祀る他、靖国大神、伊勢大神、西八龍神、東八龍神なども合祀している。

 戦後70年以上が経過し、戦争を知る世代は高齢化した。指定外護國社の管理をどうしていくかが全国的な問題となっており、廃社になるところも増えているという。
 中味鋺の忠魂社も夏とはいえ草木が生い茂ってかなりワイルドな状態になっている。岡田家の人たちももうお世話できなくなっているだろうか。あるいはもう岡田家の手を離れたのか。
 お世話をしている人たちもおそらく高齢化しているはずで、今後の存続がやや危ぶまれる。ここを参る人も少ないだろう。
 それでも、鳥居をくぐる中央部分に草は生えておらず、踏み跡もあるので近所の人などが日課のように参っているのかもしれない。
 護国神社といっても特別視することはなくて、普通の神社と同じように参拝していい。個人的な願い事をするところではないだろうけど。

 

作成日 2018.7.25(最終更新日 2019.1.12)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

夏はジャングル状態の中味鋺忠魂社

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