民家の敷地内にあるので部外者が参拝していいのかどうか迷うのだけど、しっかりした社号標もあるし賽銭箱も置いてあるので一般に開かれた神社なのだと思う。 もともとは痔塚というのがあって、それが後に神社として祀られるようになったという経緯のようだ。
200メートルほど東に月心寺と神明社(猪子石)があり、戦国時代そこに猪子石城があったという話がある。記録も遺構も残っていないので定かではないのだけど、横地氏が拠点のひとつとしていたという言い伝えがある。 横地といえば植田八幡宮のページに書いたように、室町時代中期の1470年頃に8代将軍の足利義政の命を受けて遠江の国衆だった横地秀綱が植田の地に移って城を築いたといわれている。植田八幡宮はその横地秀綱が勧請して建てたともいう。 猪子石城は横地秀綱から分かれた家が拠点としたという説がある。ただ、猪子石城主についてもはっきりしたことは分かっておらず、横地秀次や秀重・秀種親子などといった名前が挙がるもののよく分からないというの実情だ。秀重は植田城主で秀次はその弟ともいう。あるいは、秀次は植田城主・秀政の弟か。 小牧長久手の戦い(1584年)のとき、猪子石の横地氏は羽柴秀吉側について池田恒興の道案内をした後、横地秀種が檜ヶ根の戦い(長久手中央図書館あたり)で堀秀政隊と戦って敗れ、討ち死にしたとされる。 この秀種と味方を葬ったのが痔塚で、もともとは横地塚と呼んでいたのが地塚となり、やがて痔塚と変化したというのが通説として語られている。秀種は戦で尻をやられたから痔塚と呼ばれたのだというのは後付けのエピソードだろう。 猪子石城主とされる秀次は徳川方について香流川あたりで戦死したともされるのだけど、小牧長久手の戦いの後、曾木村(岐阜県土岐市)まで落ちのびたともいわれている。実際、秀次を祀ったとされる入身堂(いりみどう)や横地家先祖代々の墓があるというから、落ちのびた可能性が高そうだ。 それにしても、本能寺の変(1582年)の後、尾張国は信長の次男、信雄が所領することになって猪子石村の横地家も所領安堵されたはずなのに、どうして秀吉方についたのかがよく分からない。尾張における横地本家の植田村の横地氏は信雄・家康側についている。 猪子石横地氏と池田恒興との関係は不明なのだけど、池田恒興は当初、信雄側につくと見られていたことから、池田恒興が秀吉方についたことで結果的に秀吉方になってしまっただけかもしれない。 猪子石城と呼べるような城はなかったというのが本当だろうけど、猪子石村に横地一族がいて、秀次や秀種といった武将が住む館があったのは確かだと思う。 秀種は小牧長久手の戦いで戦死して塚に葬られ、秀次は曾木村に逃げ、横地家の館は家康隊に焼かれたのだろう。 それでも猪子石に残った横地一族が塚を守り、語り継いできたから今がある。塚を神社として祀るようになったのはわりと最近のことではないだろうか。痔塚神社がある家は横地氏の関係者だそうだ。 痔塚について『猪高村誌』(大正7年)は、「此ハ郷領横地主水守ノ城跡ニシテ同守ノ邸宅ニアリシ鎮守守護神ナリト謂ヘリ」と書いている。 この横地主水守は秀次のことのようだから、もしここに書かれていることが正しいのであれば、痔塚は秀次が猪子石にいた頃から祀っていたもので、小牧長久手の戦いの戦死者云々という話は違うということになる。
痔の語源について少し書いておくと、かなり古い字のようで、「やまいだれ」の中に「寺」があるけど寺院とは関係がなく、じっと動かないという意味の「峙つ(そばだつ)」から来ているようだ。尻の穴にあって動かない病ということから痔という字が生まれたと考えてよさそうだ。 ちなみに、「ぢ」は間違いで、「じ」が正しい。
社の前には痔塚大神、大物主神、湍津姫と書かれた木札が立てかけられている。 大物主(オオモノヌシ)と湍津姫(タギツヒメ)がどこから来ているのかは家の人に訊いてみなければ分からないのだけど、非常に珍しい不思議な組み合わせだ。特にタギツヒメをこういう形で祀っているところはほとんどない。 アマテラスとスサノオの誓約(うけい)で生まれた神で、いわゆる宗像三女神のうちの一柱とされている。宗像大社(web)では中津宮の神として祀られている(『日本書紀』では中津宮で『古事記』では辺津宮で祀られるとある)。 『先代旧事本紀』では大己貴神(オオナムチ)に嫁いで、八重事代主神(ヤエコトシロヌシ)と高照光姫命(タカテルヒメ)を生んだと記されている。 タカテルヒメを祀る神社としては、岐阜県高山市の飛騨一宮水無神社(web)がある。ここは戦後に草薙剣を一時疎開させた神社でもあり、熱田社や尾張氏とゆかりが深い。 遠江から植田村に来た横地氏が建てた八幡は、植田八幡社古墳と呼ばれる全長80メートルほどの前方後円墳の上に鎮座している。被葬者は尾張氏の祖とされる天火明命(アメノホアカリ)の十四世孫で、タケイナダネ(建稲種命)の孫に当たる尾張針名根命(おはりはりなねむらじ)という説がある。
社に掛かる紫色の幕に”丸に桔梗”の紋が染め抜かれている。 おそらく神社の神紋なのだろう。 桔梗紋というと明智光秀に代表されるように美濃の土岐氏の家紋としてよく知られている。 丸に桔梗だと妻木氏、岡氏 、沖村氏などが主な家のようだけど、横地氏もそうなのかどうかは調べがつかなかった。 幕の寄贈者名は服部となっている。
深読みするなら、横地家にはほとんど表に出ないような歴史が口伝されている可能性がある。八重事代主(八事主)に関しても本当のことが伝わっているだろうか。痔塚についても、小牧長久手の戦いの戦死者どうこうというのは後付けで、もっと古い歴史を持ったものかもしれない。 機会があれば、横地家の末裔の方に話を伺ってみたい。
作成日 2019.5.18
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