冨士八幡社

村瀬浄心か高田四郎重家か第三者か

冨士八幡社

読み方 ふじ-はちまん-しゃ
所在地 名古屋市瑞穂区雁道町4丁目35 地図
創建年 不明
社格等 無格社・十等級
祭神 應神天皇(おうじんてんのう)
木花開耶比売命(このはなさくやひめのみこと)
アクセス

・地下鉄桜通線「瑞穂区役所駅」から徒歩約24分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

『愛知縣神社名鑑』は、この神社についてこう書いている。
「社伝に領主村瀬浄心高綱城を築き(御劔小学校の所在地)その城門の両脇に鎮護の神として冨士権現宮と八幡社を祀る。寛永七年(1630)1月2日、御器所城主佐久間大繕丞のため亡ぶ。両社を合祀して村民ら深く崇敬し、明治6年、据置公許となる」

 どうしてこんなことになったのかよく分からないのだけど、まず、高綱城は高田城の間違いだ。
 それに、江戸時代に入った寛永七年(1630年)に高田城の村瀬浄心と御器所城の佐久間氏が城の取り合いで戦うはずもなく、明らかに年が間違っている。
 村瀬浄心が生きたのは信長が活躍した時代で、織田家配下だった御器所の佐久間氏と戦って負けたのは、おそらく信長が小牧から岐阜(稲葉山)に移った1567年前後のことと思われる。もう少し早いか遅いかもしれないけど、1630年ということはあり得ない。
 それに、佐久間大繕丞というのは、佐久間大膳亮勝之のことをいってるのだろうけど、佐久間勝之は盛次の四男で、1568年生まれだ。
 柴田勝家の養子になり、佐々成政の婿養子となり、戦で活躍したのは1580年代で、関ヶ原で東軍について、江戸時代は尾張藩の藩士となった。大坂の役でも活躍している。
 いずれにしても年代的にまったく違っていて、どうしてここで佐久間勝之の名前が出てきたのか分からない。

『尾張志』は「八剱ノ社 熱田ノ社 一之御前ノ社 八幡社 富士ノ社 八幡ノ社 高田村にあり」、「永禄七甲子年当村城主村瀬浄心勧請せし由元禄七年甲戌五月の棟札にあり」と書いているのだけど、それは少々怪しい。
 八劔社と熱田社一之御前社までは村瀬浄心が建てた可能性はあるとしても、八幡社と冨士社は違うのではないか。少なくとも、神之内の八幡社は熱田社との関係が深く、創建はもっとさかのぼりそうだ。

 高田城は、平安時代末にこの地に住んでいた尾張源氏の高田四郎重家の邸宅が元になっているという説がある。
 尾張源氏は、源経基の第二子・満政を祖として美濃国方県郡八島や近江国野洲郡八島に基盤を持っていたとされ、平安時代後期に尾張国にやってきてここに土着した。
 承久の乱で宮方の武将として活躍した山田重忠なども同族だ(山田重忠について私が書けることのすべて)。
 高田四郎重家は源平合戦のとき、木曾義仲の軍に加わって京に進軍し、京都では市内の警備についていた。それが1180年のことだ。
 その後は尾張国に戻ったのか、『東鏡(吾妻鏡)』では建久元年(1190年)に出てくる。 
 美濃国内で地頭と国司のモメごとが起こり、暴力沙汰になったあげく、年貢を納める納めないという話になり、美濃国地頭の山田重隆と尾張国住人の高田四郎重家が責任を取らされる形で土佐に流されることになったのだけど、その命令にちっとも従わない二人はけしからんから捕らえて流したといった内容だ。
 土佐に流れされた1190年以降の高田四郎重家の足取りはよく分からない。

 富士八幡社は、江戸時代後期の文政9年(1826年)に冨士権現と八幡宮を合祀して現在地に移したものだ。
 高田城があったのは現在の御劔小学校のところで(地図)、富士八幡社はそのすぐ南西に位置している。
 高田城があった時代は、城の鬼門(北東)の守りとして冨士権現と八幡宮が城門の左右にあったという。
 1841年(天保十二年)に描かれた高田村の絵図を見ると、高田城はすでに田んぼとなっており(字城ノ内)、その南西に八幡宮が描かれている。これが今の富士八幡社のことで、すでに冨士権現が見当たらないことからしても二社が合祀された後ということが分かる。八幡宮のすぐ北には新池という溜め池があった。
 やはり問題は、いつ誰がこの二社を創建したかだ。
 八幡宮は宇佐八幡宮から、冨士権現は冨士浅間神社からそれぞれ勧請したという話がある。
 冨士の字が「うかんむり」ではなく「わかんむり」ということからすると、総本宮の富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)ではなく、山梨県富士吉田市の北口本宮冨士浅間神社か、静岡県駿東郡の東口本宮冨士浅間神社から勧請した可能性もあるだろうか(北口本宮冨士浅間神社は諏訪社があったところに武田信玄が浅間社を勧請したとされるから違うかもしれない)。
 冨士八幡社の名称が明治以降もので、富士も冨士も違いを意識していなかったとすれば、普通に本宮から勧請したのかもしれない。
 いずれにしても、当時はコノハナサクヤヒメ(木花開耶姫命)ではなく、浅間大神(あさまおおかみ)という認識だっただろうと思う。
 八幡宮と冨士権現が実際に高田城の守り神として祀られていたとして、平安時代末の高田四郎重家によるものなのか、戦後時代の村瀬浄心によるものなのか、その判断は難しい。その途中の誰かという可能性だってある。

 大正時代はじめまでは夏祭りで男獅子が奉納されていたという。
 獅子舞というと、獅子頭をつけて家々を回ってお祓いをするというイメージを持っている人が多いかもしれないけど、この場合は神前で神楽として奉納する獅子舞のことだ。
 男獅子というからには女獅子もあったのだけど、冨士八幡社で行われていた男獅子がどういうものだったのかは今となってはよく分からない。
 コノハナサクヤヒメは女神だから、男神の八幡神が乗り移った獅子が村の安全などを祈願して舞ったものと考えていいだろうか。
 熱田に近い場所柄からすると、熱田社が関係しているとも考えられる。

 村瀬浄心が創建したとされる6つの神社について紹介し終わってなお、村瀬浄心が何者であったのかというのは見えてこない。
『寛文村々覚書』や『尾張徇行記』にある白山社がどうなってしまったのかも気になりつつ、村瀬浄心については継続調査としたい。高田四郎重家についても気にしておくことにしよう。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

高田城はなくなって残った神社が合体した冨士八幡社

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