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神明社(藤高)


藤高の田んぼの守り神として在り続ける



藤高神明社

読み方しんめい-しゃ(ふじたか)
所在地名古屋市港区藤高1丁目314 地図
創建年不明(江戸時代後期)
旧社格・等級等村社・十四等級
祭神天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
アクセス名鉄バスセンター・三重交通<サンビーチ日光川行>「南陽藤前バス停」から徒歩約15分
駐車場 なし
その他例祭 10月5日
オススメ度

 江戸時代後期の1797年(寛政9年)に東福田の西川弥市(弥一)によって開発された藤高新田に建てられた神明社だ。創建年は不明とされてはいるけど、藤高新田の氏神として勧請されたに違いない。



『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「創建は明かではない。藤高新田創成期の頃村内の安全を願い奉斎した。明治5年7月、村社に列格した。昭和34年9月の伊勢湾台風に被災をうけたが氏子の尽力により復興した」



 江戸期の『尾張志』(1844年)や『尾張徇行記』(1822年)に藤高新田の神社についての記載は見られない。



 藤高新田は西川弥市(弥一)によって開発されたことから弥市新田(弥一新田)とも呼ばれた。
 ただし、西川弥市は寛政5年に死去したという話があり、寛政9年では年代が合わないことから、開発したのは寛政3年から4年ではないかという説もある。
 何度も堤防が切れて被害に遭い、開発費用の一部を名古屋の豪商・伊藤忠左衛門(川伊藤家)に借り入れたこともあって、後に伊藤家に譲り渡すことになった。
 西川家が内輪もめして借金が膨らんだためともいう。



 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、藤高新田の集落は新川の堤防沿いと、北の七島新田の境界道路沿いにあったことが分かる。神明社は集落から少しはずれた南に位置している。ただし、鳥居マークが描かれるのは昭和7年(1932年)からなので、元からこの場所にあったかどうかは分からない。
 戦中、戦後も純農村地帯であったことに変わりなく、地図の変遷を見ても民家はあまり増えた様子がない。
 1970年代以降は多少建物が増えているものの、西側一帯はずっと田んぼが広がっている。それは今も変わっていない。大きな変化としては、南を国道23号線がわずかにかすめて、その道沿いに民家が建ったことくらいだ。



 藤高3丁目にある喚応寺(曹洞宗)は、藤高新田が完成したとされる寛政9年(1797年)に伊藤忠左衛門が濃州谷汲山観音真寫から勧請して建てた寺だ。
 そのことからしても、伊藤忠左衛門が当初から藤高新田の開発に関わっていたと考えてよさそうだ。



 名古屋市内でこれだけ広い田んぼが残っている地域は少なくなった。大変な苦労をして、莫大な費用もかけて干拓事業を行ったのは田畑を増やすことが目的だったわけで、そういう意味では藤高の田んぼは今後も残していくべき遺産といえるかもしれない。時代が移れば田んぼは家や工場に変わるのが必然といえばそうなのだろうけど、それではあの世の開拓者たちはやるせない気持ちになっているんじゃないかと想像する。
 藤高の神明社はこの土地ができて以来ずっと田んぼと住人を見守ってきた。世の中には変わらないものも少しはある。




作成日 2018.8.5(最終更新日 2019.7.27)


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