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八坂社(上野天満宮に合祀)


今はなき八坂社



上野八坂社

読み方やさか-しゃ
所在地名古屋市千種区上野1丁目4-21 地図
創建年不明
旧社格・等級等無格社・十三等級
祭神健速素盞嗚尊(たけはやすさのおのみこと)
アクセス地下鉄名城線「茶屋ヶ坂駅」から徒歩約15分
駐車場 なし
その他例祭 7月16日
オススメ度 

 2010年に一度だけ訪れたことがあって、久しぶりに再訪してみたら消えてなくなっていたので驚いた。久々だったから場所を間違えて記憶していたのかと地図を確認すると間違っていない。ネットの地図にはまだ表記がある。しかし、あるべきはずのそこに八坂社はない。消えてなくなったのは紛れもない現実だった。
 それ以来、一体何があったんだろうと気になっていた。しばらく経って、その経緯を知ることになった。上野天満宮に合祀されたのだという。ただ、その話を聞いてもにわかには信じられなかった。社が上野天満宮の境内に移されたということなのか、八坂社自体がなくなってしまったということなのか、そのときはまだ分からなかった。
 真相を確かめるべく上野天満宮に出向いてみると、なにやら新しい建物を建てている最中で、大がかりな工事をしている。そして、以前あったいくつかの境内社が消えてなくなっている。何事だこれは!? と、二度驚くことになった。



 状況を整理するとこうだ。
 そもそも八坂社は上野天満宮の境外社という扱いになっていたらしい。それがどういう事情かは分からないのだけど、2015年(平成27年)に八坂社は上野天満宮と合併したという。
 合祀と合併は違うのか?
 合祀祭というのが行われたらしいから、本社に合祀されたということなのだろう。それはつまり、八坂社はなくなってしまったということだ。八坂社の遷座とは違う。
 せめて境内社として残して欲しかったのだけど、それもないようだ。これはすごく残念なことだ。
 大がかりな工事は、あらたに晴明殿なる建物を新築しているところだったようで、これがどういったものなのかはよく分からない。名前からして安倍晴明関係には違いないのだけど、安倍晴明を祀る境内社なのか、それとは違う建物なのか。
 webサイトの「音響と照明に工夫をして大きなガラス張りの明るい社殿です」というのを読む限り、普通の社殿とは思えない。
 少し離れたところに安倍晴明を祀る晴明神社があり、上野天満宮の宮司が兼務している。ただ、そこは上野天満宮の境外社という扱いではないはずだ。もしかしてこれを移すのかと心配したけど、それはなさそうだ。
(晴明殿は2017年に完成。なんと、結婚式場だった。これの建築費を捻出するために八坂社の土地を売ったのか?)
 そんなわけで、八坂社はもうない、というのが結論であり現実だ。かつてあった場所に社殿の跡形もなく、境内だったところは永弘院の駐車場になってしまっている。



『愛知縣神社名鑑』には、「創建は明かではないが永弘院蔵書第十二代梁山弾材和尚弘化三年(1846)の古記録に八坂ノ社を記載あればその以前に鎮座ありしはとうぜんなり」とある。
 京都の祇園社から勧請して祀ったという。それはスサノオではなく牛頭天王だったはずだ。
 祇園社は創建当初、祇園天神という神を祀っていたとされ、牛頭天王が習合したのは平安後期もしくは鎌倉期とされる。
 八坂神社(web)に社名が変わるのは明治以降のことで、神仏分離令によって祭神もスサノオ(素戔嗚尊)とあらためることになった(古い神社でありながら『延喜式』神名帳に載っていないのは、もともと寺院だったからと考えられている)。
 いずれにしても、江戸時代後期の1846年の記録に「八坂ノ社」という表記があったとは思えないのだけどどうなんだろう。
『尾張志』(1844年)の鍋屋上野村の項を見るとこうなっている。
「浅間社 天王社 一御前社 八王子社 愛宕社 天神ノ社 鍋屋上野むらにあり」
 天王社が後の八坂社のことだだろう。
 天王社と八王子社との関係がどうだったのかは分からないのだけど、八王子は牛頭天王の八人の皇子を祀っていたはずだから、まったく無関係だったとは思えない。
 その八王子社は後に中区新栄に移されている。



『寛文村々覚書』(1670年頃)の上野村の項はこうなっている。
「社七ヶ所 内 天神 浅間 八幡 天王 愛宕 山神 一王御前 社内弐町壱反拾歩 前々除」
 このうちの天王が後の八坂社に当たるはずだ。
 前々除とあるから、備前検地が行われた1608年以前の創建と考えられる。



『尾張徇行記』(1822年)では鍋屋上野村の天王社についてこう書いている。
「地蔵堂牛頭天王祠弁才天、是ハ永弘院ノ界内ニアリ」
 界内というのが境内のことなのか支配下にあるということなのか、ちょっと判断がつかないのだけど、江戸時代後期の時点では永弘院に牛頭天王と地蔵堂と弁才天があったということが分かる。
 近年まで永弘院の西に隣接していて、今は永弘院の駐車場になっているくらいだから明治以降も永弘院の持分だったということか。ただ、上野天満宮の境外社という扱いだったというから、明治以降は上野天満宮に支配が移ったとも考えられる。



 永弘院は上野城を築城した下方貞清が創建したと伝わっている。当初は陽光院といっていた。
 戦国時代の1538年、上野城主だった下方貞清(しもかたさだきよ)が城の東北にあった薬師堂の薬師如来を本尊として寺を建てたのが始まりとされる。
 その後、貞清は自ら信仰する勝軍地蔵菩薩を祀るための地蔵堂を建立した。それが『尾張徇行記』にある地蔵堂だ。
 永弘院について『尾張志』はこう書いている。
「永弘院上野村にあり上野山といひて京都妙心寺の末寺也當所の領主下方左近源貞清創建して承雲和尚を開山とせり 貞清は信長記安土創業録織田軍記等にいへる小豆坂七本やりの一人にして慶長十年七月十四日に死去し法号を永弘院心源浄廣居士といふ則當寺の号とす名古屋の世臣下方氏小瀬氏の祖なり」
 柴田勝家などと比べると全国的な知名度は低いものの、1541年に父・貞経の病死により14歳で家督を継ぎ、1543年の三河国小豆坂の戦いで戦功を上げ、織田信秀から古今無双の槍の使い手と賞賛されるなど、武勇の人として知られている。
 信秀死去の後は信長に仕え、1582年の本能寺の変で長男の貞弘と次男の貞吉を失い、半ば隠居していたところを家康に引っ張り出され、松平忠吉に仕えるべく清洲に移り、1606年に79歳で死去した。
 永弘院は貞清の戒名の「永弘院心源浄廣居士」から名づけられたものだ。
「ようこういん」が正式な読み方となっている。
 ちなみに、永弘院にあった薬師堂を張振甫(明国から帰化人で医師)は振甫新田の屋敷に譲り受け、そこで薬師如来と日光・月光菩薩、十二神将を祀っていた。今は鉈薬師や医王堂と呼ばれている。



 それにしても、どうして尾張国にある津島牛頭天王社(web)からではなく京都の祇園社から牛頭天王を勧請したのだろう。そして、勧請したのはいつで誰だったのか。
 津島神社からの勧請の場合、明治以降は須佐之男社や津島社に名前が変わっていて、それが八坂社にしたということはやはり祇園社からの勧請と見るべきなのだろう。名古屋で祇園社から勧請した天王社はあまりなかったのではないかと思う。



 こんなことになる前に一度はちゃんと参拝して写真を撮っておくべきだった。もはやそれは叶わない。
 平成まで生き残った神社ならこの先も大丈夫だろうと安心していると案外そうではない。ここ10年以内に消えた神社は少なくない。だからこそ、今ある神社を今のうちに回っておく必要がある。
 そこにあるはずの八坂社が消えてなくなっているのを見たときの呆然とした感覚は、この先も長く消えずに残りそうだ。




作成日 2017.7.25(最終更新日 2019.2.14)


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