西福田新田の西の端。港区の西端であり、名古屋市の最西端でもある。隣は愛知県海部郡蟹江町だ。 現在の畑中(はたなか)という地名は2015年(平成27年)からの新しいもので、それまでは南陽町大字西福田字井戸と字宮ノ切と呼ばれていた。畑中2丁目は字雁島・字西野・字渕の各一部より成立した。 古くは西福田舩入といっていた。西に隣接する蟹江町も舩入なので、このあたりは一体化していたのだろう。蟹江町に舟入という地名が今も残っている。ここは日光川の河口近くで、文字通り舟が入ってくるところから名づけられたのだろう。
『尾張侚行記』(1822年)は西福田新田についてこう書いている。 「西福田新田ハ寛永二十年福田新田検地ノ時、大分池川有之、水帳ニモ池川二十二町九反五畝十一歩ト有之、其以後給人志水甲斐守自分人足ニテ右池川埋立、田畠百六町四反一畝二十八歩自分新田開発セラレシ由寛文覚書ニアリ、然ルニ天和二戌年自分起新田一統 ノ通リ上御所務ニナリ、貞享元子年検地アリテ如此御高キハマレリ」 西福田新田は1643年(寛永20年)に八田村の豪農だった鬼頭景義が干拓を行い、1665年に尾張藩家老の志水甲斐守に与えられ、志水甲斐守は人足を雇って川や池だらけだった土地を埋め立てて新田開発を行った。 1684年に検地が行われ、それ以降に東福田新田と西福田新田をあわせて福田新田村と呼ぶようになる。 当時は海東分、戸田分、蟹江分と分かれていた。
『尾張志』(1844年)には、「神明ノ社三社 山神ノ社 熱田大明神ノ社二所 六社共に福田新田村にあり」とある。 『尾張徇行記』ではこうなっている。 「須成村祠官寺西伊豆守書上帳ニ、西福田新田ノ内熱田大明神神明 勧請ノ初ハ寛永十九年也 大明神二社 勧請ノ初ハ慶安四卯年也 熱田大明神 勧請ノ初ハ同上(慶安四卯年) 熱田大明神 勧請ノ初ハ同上(慶安四卯年) 神明社 勧請ノ初ハ寛永十九年也」
『愛知縣神社名鑑』はこの神明社についてこう書く。 「創建は明かではない。『尾張志』に神明ノ社三所福田村にありとその一社なり、明治5年7月、村社に列格する。大正14年6月3日、弊殿を造営、昭和4年6月11日境内地百八十一坪を三百七十三坪に拡張した」
『尾張徇行記』では勧請年を寛永19年(1642年)としているのに、『愛知縣神社名鑑』は創建年を不明としている。寛永19年としない理由があるのだろうか。 1642年(寛永19年)は西福田新田が干拓される前年に当たる。これが本当であれば、開発に先立って祀ったということだ。 寛永19年なら鬼頭景義が関わっている可能性が高く、それより後に集落ができたときであれば志水甲斐守によるものかもしれない。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、現在地に鳥居マークはなく、樹林のようなマークが描かれている。おそらくこの頃から今の場所に神社はあっただろう。 家は神社南に数軒ある程度だ。 西にある大きな集落は蟹江本町で、蟹江川沿いに早くから集落が発達していた。 1920年(大正9年)の地図から鳥居マークが現れる。田んぼの中で、周りに家はない。現在も神社は田んぼに囲まれているから、当時と基本的にはあまり変わっていない。 1932年(昭和7年)の地図に南側の参道が描かれる。この参道は今も残っていて、田んぼの中の農道で両脇に松やイチョウの木などが植えられている。ちょっとした街道のようになっていて少し懐かしい感じがする。 戦中、戦後も状況はあまり変わらない。 1960年代以降、区画整理で道路ができて、田んぼが区割りされた。西側にやや家が増えている。 1980年代になると現在と同じようになった。
畑中の神明社にも神楽屋形があり、秋祭りのときに出される。黄金色に実った田の中を行列が神楽を運んで歩いていく。 もともとは獅子頭を納める質素な屋形だったものにきらびやかな装飾をほどこすようになったのは明治以降のことという。名古屋西南部で流行り、各神社が競うように作った。 それらの神楽屋形と神楽囃子をあわせて、このあたりでは神楽と呼んでいる。 10月の名古屋まつり(web)にも出されているので、見たことがある人もいると思う。
ここまで来ると名古屋城下からはかなり遠い。高い建物がなかった江戸時代でも名古屋のお城は小さくしか見えなかっただろう。歩けば4時間はかかる距離だ。 この地で生まれ育って名古屋城に一度も訪れたことがないまま終わってしまった農民も少なくなかったんじゃないだろうか。 それとも名古屋城下の祭礼のときなどは農作業を休んで家族揃って見物に出かけただろうか。
作成日 2018.8.28(最終更新日 2019.8.3)
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