旧飯田街道沿いにある小さな社。 もともとここにあった社なのか、他から移されたものか定かではないのだけど、飯田街道沿いに千種区の高牟神社(今池)(地図)の氏子さんが住んでいたそうなので、その人達が祀ったのが始まりかもしれない。 祭神現在、高牟神社・熱田社・伊勢神宮・津島社・秋葉社となっているようだ 高牟神社はこの社がある場所から見ると北西1.6キロほどに位置している。ここまで氏子の範囲が広かったのは少し驚きだ。むしろ南西の川原神社(地図)の方が近い。 年末と正月には高牟神社から神職に来てもらって祭礼を行っているというから、やはり高牟神社関係の社ということで間違いなさそうだ。 現在は昭和区小坂町の町内で管理していて、町内会費で運営されているとのことなので、小坂町の町内神社を兼ねているともいえるだろうか。 社の階段が壊れたりしていて少し荒れているのが気になった。お金をかけなくても簡単な補修や掃除くらいならできる。
この社がある少し東を南北に塩付街道(しおつけかいどう)が通っていた。このあたりでいうと、昭和区と千種区の区境になっている細い道が塩付街道の名残のようだ。 もともとは星﨑あたりで作った塩を運ぶために自然発生的にできた道といわれている。 先の尖った格好をした笠寺台地の先端が星﨑で、台地の西と南は海だった。呼続浜(よびつぎはま)と呼ばれた海岸で盛んに塩作りが行われていて、前浜塩というブランド品だった。 塩付街道の起点についてはいくつかの説があってはっきりしない。星宮社(地図)のあたりだったか、富部神社(地図)のあたりなどとされている。 そのあたりでいったん集められた塩を馬に乗せて運んでいた。そのため、街道沿いには馬頭観音や地蔵堂が置かれ、その一部が現存している。 塩付街道を北上して飯田街道と合流して信州方面に向かい、更に北上して古出来町で山口街道と合流した。更にその北の水野街道(瀬戸街道)ともつながっていた。 飯田街道は飯田方面につながる道の総称で、必ずしも一本の道の呼び名ではない。現在は、新栄の南から吹上、八事を通って平針方面に斜めに抜ける153号線を飯田街道と呼んでいる。 これは名古屋城下から駿河方面に向かう駿河街道が元になっている。 家康が岡崎と名古屋城を最短距離で結ぶ道を整備したことで岡崎街道と呼ばれることもあった。 江戸時代の駿河街道は、名古屋城下の伝馬町から東へ進み、駿河町で南東に方向を変えて、八事を通って平針宿に至り、岡崎街道と分かれて北方向に向かって赤池、挙母を通り、三峰峠を越えて足助に出て、更に伊勢神峠を越えて稲橋へ、根羽で北まわりの道と合流して飯田に出るというコースだったようだ。 その他、大曽根から大森、瀬戸方面に向かう道や、大曽根から末盛、高針、岩崎を通って猿投に向かう道も飯田街道(信州飯田街道)と呼ばれていた。 旧街道歩きというと東海道や中山道を思い浮かべる人が多いと思うけど、こういった地元のマイナーな旧街道歩きもなかなか面白い。鎌倉街道くらい古くなると痕跡がほとんど残っていないものの、名古屋や近辺の佐屋街道や美濃路などはそこそこ名残があって歩くと楽しめると思う。 街道沿いの小さな社やお堂などは歴史の証人であり、忘れ形見のようなものだ。ちょっと気に留めてあげてやってほしい。
作成日 2018.2.14(最終更新日 2019.3.19)
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