紀左衛門神社

新田開発の紀左衛門の名前は残った

紀左衛門神社入り口鳥居

読み方 きざえもん-じんじゃ
所在地 名古屋市南区内田橋1-33-25 地図
創建年 1794年(江戸時代中期)
社格等  村社・十等級
祭神

天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)

アクセス

・名鉄常滑線「豊田本町駅」から徒歩約10分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 熱田の南から笠寺の北にかけてのエリアは古代海に浸かっていた低地で、海岸線が後退したあとも長らく低湿地帯でなかなか開発が進まなかった。この地区の開発が本格的に始まったのは江戸時代に入ってからのことだ。
 江戸前期に尾張藩主導で熱田に新田が開発された。それは、熱田一番から三十三番まで区割りされた広大な新田だった。
 その後、江戸も中期になると個人で開拓する人間が出てきた。南区にはそれらの人物の名前を冠した町名がいくつか残っている。源兵衛町や又兵ヱ町などがそうだと思う。
 今回紹介する紀左衛門神社も新田開発から誕生した神社のひとつだ。
 ただし、紀左衛門その人を祀る神社というのではく、紀左衛門が開発した新田の守り神として勧請創建されたのがこの紀左衛門神社だった。
 熱田の土豪だった加藤紀左衛門がこの地区の新田開発に乗り出したのは江戸時代中期の宝暦4年(1754年)のことだった。
 干拓(かんたく)だったというから、江戸時代中期でもまだここは海だったということだ。干拓地は海水をせき止めて干上がらせた土地のことをいい、土を盛って海を埋め立てるのとは少し違う。埋め立てよりも手間や費用はかからないものの、塩水に浸かっていた土地ということで塩を抜いて田んぼにするには時間がかかる。
 紀左衛門神社が創建されたのは開発が完了した寛政6年(1794年)という。開発を始めて40年の歳月が流れていたことを考えると、新田開発というのがそう簡単なものではなかったことが分かる。このときはもう紀左衛門は生きていなかっただろう。
 その後、紀左衛門新田は徳川家所有となったというから、加藤家も続かなかったのかもしれない。
 余談ではあるけど、この加藤家というのは戦国時代に熱田の豪商で、信秀・信長と懇意にしていた家だ。桶狭間の戦いに向かう途中、熱田神宮で信長が戦勝祈願をしたとき同席していて酒を勧めたところ、「加藤が来たから勝とう!」と信長は駄洒落を飛ばしたのだとか。
 駄洒落はともかく、信長は加藤は勝とうに通じて吉兆だと喜んだという話は伝わっている。

 創建時はアマテラスを祀る神明社だった。
 当初は茅葺き屋根の合掌造の拝殿だったという。
 明治12年(1879年)、村社に列格するとともに据置公許となる。
 昭和20年(1945年)、空襲で被災。
 紀左衛門神社と改称したのは昭和34年(1959年)のことだ。
 昭和37年(1962年)、新幹線開通のため、現在地に移された。

 古傳馬神社といい、紀左衛門神社といい、過去の歴史を忘れないために名前を変えたのはいいことだ。これが熱田社や神明社では、歴史は埋もれてしまって伝わらないかもしれない。誰もがその神社について興味を持って調べるわけではない。神社も名前はけっこう大事だ。
 紀左衛門の名前は、神社南の紀左ヱ門通交差点にも残る。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

紀左衛門神社で祀っているのは紀左衛門さんではない

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