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紀左衛門神社


新田開発の紀左衛門の名前は残った



紀左衛門神社入り口鳥居

読み方きざえもん-じんじゃ
所在地名古屋市南区内田橋1丁目33-25 地図
創建年1794年(江戸時代中期)
旧社格・等級等 村社・十等級
祭神天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)
アクセス名鉄常滑線「豊田本町駅」から徒歩約10分
駐車場 なし
電話番号052-811-7513
その他例祭 10月10日(体育の日?)
オススメ度

 熱田の南から笠寺の北にかけてのエリアは古代には海に浸かっていた低地で、海岸線が後退したあとも長らく低湿地帯でなかなか開発が進まなかった。この地区の開発が本格的に始まったのは江戸時代に入ってからのことだ。
 江戸時代前期に尾張藩主導で熱田沖を干拓によって開発し、その後次々と干拓による新田作りが行われることになる。中期以降は豪商や豪農などが個人として開発を行うこともあった。
 南区に地名として残る源兵衛町や又兵ヱ町などは、そういった新田開発をした人たちの名前だ。
 今回紹介する紀左衛門神社も新田開発から誕生した神社のひとつだ。



 熱田の土豪だった加藤紀左衛門がこの地区の新田開発に乗り出したのは江戸時代中期の宝暦4年(1754年)のことだった。
 干拓というのは沖に堤防を築いて海水をせき止め干上がらせるという方法だ。埋め立てとは違って土を運んでこなくていいので割安で大勢の人手を要しないというメリットはあるものの、大雨や嵐によって堤防が切れるとやり直しというリスクがあった。それに土は塩を含んでいるため、それが抜けるまで時間がかかるというのも難点だ。
 ただ、干拓ができるということはそれだけ遠浅の海だったということで、埋め立てではなく干拓にしたのは必然だったといえるだろう。



 紀左衛門神社が創建されたのは寛政6年(1794年)のことという。
 開発を始めてから40年の歳月が流れていたことを考えると、新田開発というのがそう簡単なものではなかったことが分かる。
 その後、紀左衛門新田は徳川家所有となったというから、加藤家もいいときは続かなかったのかもしれない。
 この加藤家というのは熱田の豪商で、信秀・信長と懇意にしていた家だ。桶狭間の戦いに向かう途中、熱田社で信長が戦勝祈願をしたとき酒を運んで献じたところ、「加藤が来たから勝とう!」と信長は駄洒落を飛ばしたという話が伝わっている。
 加藤家は戦国時代末に東加藤(図書助)と西加藤に分かれ、紀左衛門新田を開発した紀左衛門は西加藤の方だ。



 創建時はアマテラスを祀る神明社だった。
 当初は茅葺き屋根の合掌造の社殿だったという。加藤家がお金をかけて立派な神社を建てたのだろう。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「宝暦年中(1751-1763)紀左衛門新田の開拓により守護神として創建せらる。明治12年、神明社として据置公許となる。昭和34年5月1日紀左衛門神社と改称した」
 ここには書かれていないけど昭和20年(1945年)の空襲で社殿をはじめすべてを焼失している。
 昭和34年(1959年)の伊勢湾台風でも被害にあったのではないかと思う。
 昭和37年(1962年)には新幹線開通のために移されたらしいのだけど、今昔マップの変遷を見る限り、大きくは動いていないようだ。



 古傳馬神社といい紀左衛門神社といい、過去の歴史を忘れないために名前を残すのはいいことだ。誰もが神社について興味を持って詳しく調べるわけではない。ただの神明社よりも紀左衛門神社の方が印象に残る。調べなくても紀左衛門という人が関係していることは分かる。
 紀左衛門の名前は、神社南の紀左ヱ門通交差点にもとどめている。




作成日 2017.5.3(最終更新日 2019.8.11)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

紀左衛門神社で祀っているのは紀左衛門さんではない

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