神社の社殿は守山白山古墳と名づけられた古墳の上に建っている。 古墳時代前期築造と考えられる前方後円墳で、全長は95メートルほどと推定されている。4世紀末までさかのぼれるとすれば、名古屋市内では古い部類に属す。 古代においてこの場所は、守山台地の西の端に当たる。すぐ西は海が深く入り込んでいた。 庄内川と矢田川に挟まれた台地上の守山、小幡、志段味地区に多くの古墳が築かれた。志段味は名古屋市内で最大の古墳密集地帯で、白鳥塚古墳は全長115メートルの前方後円墳で、4世紀後半に築造されたものだ。 志段味の集団と小幡以西の支配者との関係性についてはよく分からない。同一かもしれないし別勢力かもしれない。ただ、どちらも大型の前方後円墳を築いたということは、4世紀から6世紀にかけてこの地区の首長がヤマト王権と深くつながっていたことを示している。 時代をさかのぼると、小幡の牛牧地区に縄文時代後期から古墳時代にかけての集落があったことが分かっている。
小幡中の白山神社(地図)は、飛鳥時代前期の600年頃に欽明天皇の皇子の小墾田王(おはるだおう)がこの地にやって来て創建したという話が伝わっている。 小幡は小墾田から転じたものともいう。 小幡白山神社は6世紀築造とされる小幡南島古墳と呼ばれる直径33メートルの円墳の上に乗っている。 市場白山神社の創建は712年と社伝はいう。 都が藤原京から平城京に遷されたのが710年だから、奈良時代初期ということになる。712年は『古事記』が完成した年だ(『日本書紀』は720年完成)。 645年の大化の改新に伴う改革のひとつとして、646年に薄葬令(はくそうれい)が出された。民の負担軽減のために大規模な古墳の築造を制限したものだ。これ以降、古墳はほぼ築かれなくなった。志段味古墳群も7世紀で築造は終わっている。持統天皇が703年に崩御したとき、天皇では初めて火葬で葬られた。 志段味・守山地区の集団と、火高・熱田を本拠とする尾張氏との関係性はどうだったのかというのもひとつポイントとなる。 守山区の東谷山には4世紀前半築造と推定される尾張戸神社古墳、4世紀中頃の中社古墳と南社古墳がある。山頂の尾張戸神社古墳の上には尾張戸神社が建っている。 672年の壬申の乱の際には、大海人皇子を尾張氏が大いに助けて天武天皇として即位していることからも、尾張の地と中央政権の結びつきは強かったことが分かる。 こうした流れを踏まえると、守山の地に700年代前半に神社が建てられた可能性は充分考えられる。 ただし、その神社が最初から白山神社だったかどうかは分からない。 白山神社総本社の白山比咩神(石川県白山市/web)は古い式内社ではあるものの、泰澄によって白山が開かれたのは717年のこととされる。 古い古墳の上に神社を建てたのだから何かしらの関連や意味があったはずで、それが白山の神というのはちょっとしっくりこない。守山白山古墳の被葬者が誰だったのかも当然重要な点だし、神社を創建した人物がそれを知っていたかどうかということもある。 それほど古い神社とされながら『延喜式』神名帳(927年)にも『尾張國内神名帳』にも載っていない。その点をどう捉えるべきなのか。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「創建は養老年間(717)と伝える。慶長十三年(1608)伊奈備前守、彦坂九兵、中野七蔵の三奉行が出した除地について証文あり、又小幡城主山田次郎重忠公、次いで大永寺領主岡田伊勢守、守山城主織田孫十浪信次公ら社殿造営、鳥居の寄進あり、守山、大永寺、金屋坊、大森垣外、牛牧、小幡村六ヶ村の総氏神として馬の塔を牽進する。元禄四年(1691)5月22日山林奉行水野権平、白山宮社領五石及び山林竹木を免除した証文を社蔵する。宝永五年(1708)春、本殿(朱塗権現造)を造営。安政七年(1860)三月、拝殿を改築。明治4年村社に列格。明治24年10月地震により拝殿倒壊。同年11月28日、本殿を神明造に改造する。明治25年11月、拝殿を再建、明治29年10月、社殿、社務所を造営した。明治40年10月26日、供進指定社となる。大正元年9月29日、秦江1254番、村社八幡社と大門1115番、神明社と町北449番、洲原社を本社に合祀する。昭和6年10月、弊殿、社務所を新築した」
山田重忠が小幡城主というのは間違いで、小幡城は山田重忠の子孫の岡田重篤が戦国時代の1522年に築いたとされる。 重忠は平安時代末から鎌倉時代前期にかけての源氏の武将だから、時代が全然違う。 重忠は鎌倉時代に幕府の御家人として尾張国山田荘を領しており、信心深い人で寺社の創建や修造を行っているから、市場の白山神社にも関わった可能性はある。 室町時代以降もこの地の支配者たちがこの神社を大事にしたことが分かる。江戸時代中期には朱塗りの権現造だったというから、かなり豪華だった時代もあったようだ。
大正時代に近隣の神社を合祀したため、祭神が多くなっている。 洲原社があったというのも見逃せない点で、現在の岐阜県美濃市にある洲原神社(web)は古くからの白山信仰の重要神社なので、この市場白山神社と関わりがあったことが考えられる。
『寛文村々覚書』(1670年頃)の守山村の項はこうなっている。 「社七ヶ所 村内八反八畝三歩 前々除 仙現弐ヶ所 当村 誓願寺持分 八幡宮 当村 龍雲寺持分 山神弐ヶ所 当村 見寿寺持分 白山 当村 長母寺持分 洲原大明神 当村 山伏 恵春持分」
白山社は長母寺の持分だったようだ。 長母寺は1179年に山田重忠が母の菩提を弔うために桃尾寺を建立したのが始まりとしているけど、それはたぶん正しくない。重忠は1221年の承久の乱で命を落としたとき56歳だったというから、1179年当時はまだ13歳か14歳くらいだ。そんな年齢で寺を創建できるとは思えない。重忠は次男で、このときはまだ父も兄も健在だった。 重忠がもし桃尾寺に関わっているとすれば、幕府の御家人になった1185年以降だろう。 長母寺と名を改めたのは無住國師で、1262年のことだ。縁起には観勝坊上人、慶法橋上人、静観房上人の名が見えることからすると、1179年創建というのもなくはないのか。その場合、山田重忠は関わっていない可能性が高い。 無住國師は著作の『沙石集』の中で「尾州に、山田二郎源重忠と云ひしは、承久の時、君の御方にて討たれし人なり。弓箭の道人に許され、心も猛く、器量も人に勝れたりける者ながら、心やさしくて、民の煩ひも思ひ知りて、よろづ優なる人なりけり」云々と書いている。しかし、無住は1226年生まれなので、1221年に亡くなった重忠を直接知っていたわけではない。 長母寺は江戸時代中期までは矢田川の北にあり、白山神社や宝勝寺とは地続きだった。それが大雨による大洪水で矢田川の流れが北に移ってしまったため、川の南に取り残される格好になった。今は東区に属している。
『尾張志』(1844年)では「白山社 八幡社 浅間社二所 洲原社 五社ともに守山村にあり」となっており、山神社が見当たらない。 『尾張徇行記』(1822年)は『寛文村々覚書』とほぼ同じような内容だ。 八幡社と洲原社が大正元年に白山社に合祀されたことは『愛知縣神社名鑑』から分かる。同じ年に合祀された神明社は江戸期の書にはない。 浅間社二社がどうなったのかは調べがつかなかった。現在の守山区に浅間神社はない。市場白山神社の境内社の浅間社がそれだろうか。
神社の西にある宝勝寺は、この地で命を落とした松平清康(徳川家康の祖父)の菩提を弔うために大永寺の大渓良澤和尚が1637年に建立した寺だ。 守山城は1521年に今川氏豊が築いたとされる。 白山神社もかつてはもっと広かっただろうから、城と神社は一体化していたかもしれない。あえてこの場所を選んだのだろう。白山社を守護神と考えた可能性もある。 尾張守護の斯波氏の力が衰え、遠江から今川氏が攻め込んでいた時代で、名古屋城(web)の前身である那古野城も今川氏豊が築城している。 斯波氏に代わって力をつけたのが尾張国守護代の織田氏だった。時代としては信長の父の信秀の頃だ。織田家と今川家で尾張の城を取り合っていた。 織田信光が守っていたときの小幡城を攻めた松平清康は、家臣の阿部定吉の裏切りによってあっさり討ち取られてしまう。織田家と内通していると噂された阿部正豊の息子の定吉が勘違いで討ったともいわれている。これを森山崩れと呼んでいる。 守山城が廃城になったのは、桶狭間の戦いの後とも、城主の織田信次が討ち死にした後とも、小牧長久手の戦いの後ともされ、はっきりしない。 市場の地名は、守山城時代、ここに市場があったことから来ているとされる。
守山区を代表する古い神社でありながら分かっていることは少ない。 尾張氏の関係神社ならもう少し伝わっているものがあるだろうから、違う系統のような気がする。個人的な感覚としては、志段味も守山も尾張氏の支配下になかったのではないかと考えている。まったく無関係ではないとしても、尾張氏の直接的な支配地ではなかったのではないか。 では、この地に古墳を築き、神社を建てたのはどこから来たどういう集団だったかということになる。 小幡白山神社を創建したのが本当に欽明天皇皇子の小墾田王だったとすればその流れを汲むものかもしれない。小幡と市場の白山神社のそれぞれの社伝を信じるなら、小幡白山神社の100年ちょっと後に市場の白山神社が建てられたことになる。それがどういう状況だったのかまでは想像がつかない。 この一社だけで考えず、周辺の神社や遺跡とあわせて検討を続ける必要がありそうだ。
作成日 2018.4.28(最終更新日 2019.1.22)
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