市杵島社(星﨑)

ここでも山田重忠の名が伝わる

星﨑市杵島社

読み方 いちきしま-しゃ(ほしざき)
所在地 名古屋市南区星﨑1丁目51 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 無格社・十五等級
祭神 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
アクセス 名鉄名古屋本線「本星﨑駅」から徒歩約12分
駐車場 なし
その他 例祭 10月7日(10月第2日曜日?)
オススメ度

 この市杵島社はもとは辯才天社といっていた。
 この神社にも、源氏の武将で鎌倉幕府御家人の山田重忠が創建したという話が伝わっている。
 しかし、個人的にはその話は信じていない。平安末から鎌倉時代前期にかけてこのあたりは笠寺台地の下の年魚市潟(あゆちがた)と呼ばれる干潟で、神社を建てられるような場所ではなかった。
 星﨑城を築城したのも山田重忠とされている。今は笠寺小学校になっているのがその跡地だ(地図)。それが1177-1181年というのだけど、1181年でも山田重忠はまだ16歳かそこらで初陣も飾っていないときで、尾張山田氏の本拠地(地図)である山田荘(北区)を離れて愛知郡星﨑まで来ていたかと考えるとそれも疑問だ。
 重忠は次男坊で、1181年というと父親の重満と兄の重義が墨俣川の戦いで命を落とした年に当たる。その年に星﨑に移ったということもなくはないだろうけど可能性としては低い。
 星﨑の正行寺(地図)は1217年に山田重忠が創建したという。はじめは信楽寺という名前だった。
 重忠は木曾義仲に従って平家と戦い、鎌倉幕府成立後は尾張国山田荘の地頭に任じられて御家人になっている。それは1185年頃のことと思われる。
 1221年の承久の乱では後鳥羽上皇の倒幕の挙兵に従って一族とともに朝廷側として戦って命を落とした。
 鎌倉時代前期の愛知郡星﨑がどういう状況だったのかはよく分からないのだけど、山田荘の地頭だった重忠が星﨑荘のこの地を拠点にできたかどうか。
 先ほど書いたように、鎌倉時代はこのあたりは干潟の海で寺などは建てられなかったはずというのもある。干潟だから、潮が満ちてきたら海の底に沈んでしまう。
 重忠の子孫は戦国時代から江戸時代に至るまでそれなりに名をあげて活躍するから、その子孫たちが重忠の名を出したのか、地元の英雄にあやかって重忠創建としたのか、そのあたりの可能性が高いのではないだろうか。
 重忠の足跡はやはり北区一帯に色濃く残っている。それらのすべてが本当とは思えないけど、星﨑と重忠を結びつけるのは難しいように思う。

『愛知縣神社名鑑』は、「創建は明かではない。領主山田治郎重忠の創祀という。明治維新その後裔山田太郎右ヱ門の手を離れ村にて経営する。明治6年、据置公許となる」と、山田重忠創建説をとっている。
 ただ、山田重忠は一般的に二郎や次郎と称していたとされ、治郎というのは他では見ないことからしてもこれは信じられない。
 重忠の末裔の山田太郎右ヱ門という人物が守っていたものを明治以降に村のものとしたというのは充分あり得る話で、山田太郎右ヱ門が重忠創建としたのか、重忠の子孫ということで重忠創建という話になったのか。
 今でこそ山田重忠の名を知る人は少なくなってしまったけど、戦前までは後鳥羽上皇の忠臣としてよく知られるヒーローだった。英雄の名前が一人歩きするということはどの時代でもよくあることだ。

 江戸時代のここは南野村だった。
『寛文村々覚書』(1670年頃)はこう書く。
「社壱ヶ所 内ニ 神明 天王 当村祢宜 宮内持分 社内弐反歩 前々除」
 社が一社としつつ神明と天王と書いていることから二社が一体になっていたということか。これは喚續社のことだろう。
『尾張志』(1844年)ではこうなっている。
「喚續神明ノ社 (略)
 辯才天社 神幸(ミユキ)の御旅所といへり
 稲荷ノ社 地先繰出新田にあり」
 神幸は「しんこう」または「じんこう」といって、遷宮や祭礼のときに御神体を神輿(みこし)などに乗せて新殿や御旅所に渡ることをいう。
 江戸時代の南野村の中心神社といえば喚續神明社(喚續神社)だったから、そこの御旅所だっただろうか。
『南区の神社を巡る』は、氏子さんの話として、市杵島社(辯才天社)は喚續神社から分霊したものと紹介している。
 この話をそのまま信じていいのかどうかは分からないのだけど、『南区の神社を巡る』は祭神を市杵島姫命・天照皇大御神・豊受姫命の三柱としているので、喚續神明社からの分霊というのはあり得るのかもしれない。
『尾張徇行記』(1822年)は、「神明祠 天王祠 府志ニ、倶在南野村、山田次郎重忠建立」と書いている。
 事実かどうかはともかく、星﨑のこのあたりの神社や寺や城はことごとく山田重忠が建てたという話が伝わっていたことは確かなようだ。実際問題としてそれはあり得ないだろうけど。

 境内社に竈神社と加具土神社がある。
 星﨑はかつて塩作りが盛んな土地だったから、その関係で竈の神様である伊奈突智老翁(イナヅチノオジ)を祀っているのではないかと思う。
 伊奈突智老翁は元・下知我麻神社の祭神で、知我麻は千の竈を意味する千竈から来ている。

 市杵島社の作りはごく簡素で、参拝しながら何かが足りないと思った。鳥居がないことと、狛犬もいないことに気づいた。
 本社は神明造で、千木は内削、鰹木五本で、一応女神を祀る形式にのっとっている。
 弁天社らしさはまったくない。
 なんとなく釈然としない不思議な後味が残った。

 

作成日 2018.2.18(最終更新日 2019.8.17)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

星﨑の市杵島社を建てたのは山田重忠ではないはず

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