市杵島社(星﨑)

ここにも山田重忠の名前が

星﨑市杵島社

読み方 いちきしま-しゃ(ほしざき)
所在地 名古屋市南区星﨑1丁目51 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 無格社・十五等級
祭神 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
アクセス 名鉄名古屋本線「本星﨑駅」から徒歩約12分
駐車場 なし
webサイト  
オススメ度

 この市杵島社はもとは辯才天社だった。
 この神社も、源氏の武将で鎌倉幕府御家人の山田重忠が創建したという話が伝わっている。
 しかし、個人的にはその話は信じられない。平安末から鎌倉時代前期にかけてこのあたりは笠寺台地の下の年魚市潟(あゆちがた)と呼ばれる干潟で、神社を建てられるような場所ではなかった。
 星﨑城を築城したのも山田重忠とされている。今は笠寺小学校になっているのがその跡地だ(地図)。それが1177-1181年というのだけど、1181年でも山田重忠はまだ16歳かそこらで初陣も飾っていないときで、尾張山田氏の本拠地(地図)である山田荘(北区)を離れて愛知郡星﨑まで来ていたかと考えるとそれも疑問だ。
 重忠は次男坊で、1181年というと父親の重満と兄の重義が墨俣川の戦いで命を落とした年に当たる。その年に星﨑に移ったという可能性はあるだろうか。
 星﨑の正行寺(地図)は1217年に山田重忠が創建したという。はじめは信楽寺という名前だったそうだ。
 重忠は木曾義仲に従って平家と戦い、鎌倉幕府成立後は尾張国山田荘の地頭に任じられて御家人になっている。それは1185年頃のことと思われる。
 1221年の承久の乱では後鳥羽上皇の倒幕の挙兵に従って一族とともに朝廷側として戦って命を落とした。
 鎌倉時代前期の愛知郡星﨑がどういう状況だったのかはよく分からないのだけど、山田荘の地頭だった重忠がこの地を拠点にできたかどうか。
 先ほど書いたように、鎌倉時代はこのあたりは干潟の海で寺などは建てられなかったはずというのもある。干潟だから、潮が満ちてきたら海の底に沈んでしまう。
 重忠の子孫は戦国時代から江戸時代に至るまでそれなりに名をあげて活躍するから、その子孫たちが重忠の名を出したのか、地元の英雄にあやかって重忠創建としたのか、そのあたりの可能性が高いのではないだろうか。
 重忠の足跡はやはり北区一帯に色濃く残っている。それらのすべてが本当とは思えないけど、星﨑と重忠を結びつけるのは難しいように思う。何か決定的な史料などがあれば話は違ってくる。

『愛知縣神社名鑑』は、「創建は明かではない。領主山田治郎重忠の創祀という。明治維新その後裔山田太郎右ヱ門の手を離れ村にて経営する。明治6年、据置公許となる」と、山田重忠創建説をとっている。
 ただ、山田重忠は一般的に二郎や次郎と称していたとされ、治郎というのは他では見ないことからしてもこれは信じられない。
 重忠の末裔の山田太郎右ヱ門という人物が守っていたものを明治以降に村のものとしたというのは充分あり得る話だ。山田太郎右ヱ門が重忠創建としたのか、重忠の子孫ということで重忠創建という話になったのか。
 今でこそ山田重忠の名を知る人は少なくなってしまったけど、戦前までは後鳥羽上皇の忠臣としてよく知られるヒーローだった。英雄の名前が一人歩きするということはどの時代でもよくあることだ。

 江戸時代のここは南野村だった。
『尾張志』にはこうある。
「辯才天社 神幸(ミユキ)の御旅所といへり」
 神幸は「しんこう」または「じんこう」といって、遷宮や祭礼のときに御神体を神輿(みこし)などに乗せて新殿や御旅所に渡ることをいう。
 江戸時代の南野村の中心神社といえば喚續神明社(喚續神社)だったから、そこの御旅所だっただろうか。
『尾張志』には「稲荷ノ社 地先繰出新田にあり」ともある。
 江戸時代前期の1670年頃成立した『寛文村々覚書』の南野村の項を見るとこうなっている。
「社弐ヶ所 内ニ 神明 天王 当村祢宜 宮内持分 社内弐反歩 前々除」
 神明というのは喚續神明社のことなのだろうけど、天王はどの神社を指しているのか分からない。
 辯才天社も稲荷社も載っていない。その時代にはまだ建っていなかったとすれば山田重忠創建という話は違うということになる。もしくは、寺の中で祀られていたか。
『尾張徇行記』は、「神明祠 天王祠 府志ニ、倶在南野村、山田次郎重忠建立」と書いている。
 元ネタは『張州府志』かもしれない。
 この神明社が喚續神明社のことを指しているとすれば、それはさすがにあり得ない。更に光照寺や正行寺まで山田重忠が創建したとあり、これらの話を全部信じたら星﨑にある神社や寺はほとんどが山田重忠が創建したということになってしまう。

『南区の神社を巡る』も山田重忠創建とし、末裔の山田太郎右衛門が社守をしていたのだけど子孫が絶えたので村で守ることになったと書いている。
 氏子の話として、もともとは喚續神明社から分霊したもので、近くにある琴飛羅社、鹿島稲荷社もすべて氏子は共通しているのだという話を紹介している。
 この話が本当であれば、喚續神明社の創建は戦国時代の1523年とされていることからも、山田重忠創建というのはあり得ないということになる。

 境内社に竈神社と加具土神社がある。
 星﨑はかつて塩作りが盛んな土地だったから、その関係で竈の神様である伊奈突智老翁(イナヅチノオジ)を祀っているのではないかと思う。
 伊奈突智老翁は元・下知我麻神社の祭神で、知我麻は千の竈を意味する千竈から来ている。
 市杵島社の作りはごく簡素で、参拝しながら何かが足りないと思った。ひとつには鳥居がないことと、狛犬もいないことと気づいた。
 本社は神明造で、千木は内削、鰹木五本で、一応女神を祀る形式にのっとっている。
 弁天社らしさはまったくない。
 山田重忠らしさもまったく感じられないと言わざるを得ない。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

星﨑の市杵島社を建てたのは山田重忠ではないはず

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