淺間社(鳴海町向田)

いつ誰が淺間大神を祀ったか

鳴海町向田浅間社

読み方 あさま-しゃ?(なるみちょう-むかえだ)
所在地 名古屋市緑区向田2 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 無格社・十五等級
祭神 木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
アクセス 名鉄名古屋本線「鳴海駅」から徒歩約1分
駐車場 なし
その他 例祭 4月1日 茅の輪くぐり 7月31日?
オススメ度

 鳴海駅のすぐ北にあって、西にある鳥居をくぐっても境内に入れないことを不思議に思った。もともとこちらからも入れたのか、それとも違う意味で建てられているのか。
 鳴海八幡宮の祭礼のときにこの神社が御旅所になっていることと関係があるかもしれない。

『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「勧請は文政四辛巳年(1821)3月、と言伝えるが、文化三丙寅年(1806)6月、寺社方への書上書に当神社の社殿並に境内地の事が記録あれば創建は文化以前であること歴然たり。古来鳴海宿の氏神鳴海八幡宮の御旅所とされ神輿御休息所の施設あり。明治6年据置公許となる」

 言い伝えでは江戸時代後期の1821年勧請とされるも、1806年の記録にあることから創建はそれ以前に違いないといっている。
 しかし、1670年頃にまとめられた『寛文村々覚書』に「淺間社 当村祢宜 如意寺持分」があり、前々除となっているので江戸時代以前からあったということになる。

 この如意寺(地図)というのは鳴海で最も古い寺とされ、創建は平安時代後期の康平二年(1059年)という説もある。
『尾張志』(1844年)や『尾張徇行記』(1822年)にいろいろ書いているのをまとめるとこうなる。
 もともとは古鳴海の南の地蔵山というところにあって、『続古今和歌集』(しょくこきんわかしゅう)に出てくる鳴海寺はこの寺のことをいっているのではないかとする。
 現在の山号は頭護山で、かつては青鬼山と号していた。
 地蔵山にあった頃は七堂伽藍を持つ大きな寺で、六角殿の二階に18体の地蔵が安置されていた。それは戦乱で焼けて一体だけが残り、十王堂に祀られている。
 本尊は如意輪観音像で、地蔵堂には定朝作の地蔵像があり、十王堂には小野篁(おの の たかむら)作と伝わる地蔵と十王を安置する。
 鎮守社として金毘羅社、秋葉社がある。
 淺間社について『尾張徇行記』は、「祠官久野越後書上ニ、浅間境内二畝十二歩 御除地ナリ」と書いている。

 如意寺と淺間社の関係がいつ始まったのかは分からないのだけど、江戸時代は如意寺がこの神社を管理していたと考えてよさそうだ。
 今でも近所の人は淺間社ではなく淺間堂と呼んでいるというから、もともとは寺の中にあるお堂だったのかもしれない。
 読み方は「せんげん」ではなく「あさま」と言っているというのだけど、正式名は分からない。
 江戸時代中期の1737年(元文2年)に淺間社は旧地の鳴海の小森から現在地に移された。正確な旧地は調べがつかなかったのだけど、ここより北の古鳴海交差点西に小森(地図)の地名が残っているのでそのあたりだと思われる。
 ここに遷座して以来、鳴海八幡宮の御旅所となったというのだけど、そのあたりの経緯もよく分からない。現在も鳴海八幡宮の祭礼ではこの場所に神輿がとどまることになっている。

 明治元年(1868年)、明治天皇東京行幸の賢所の奉安所となった建物がある。
 明治天皇は東京奠都(とうきょうてんと)によって京都御所から江戸城に移ることになり、江戸城は東京城と改められた。
 賢所(かしこどころ)は、天皇が居住する宮中において三種の神器のひとつである八咫鏡を祀る場所をいい、奉安所(ほうあん)はそれを奉安する場所をいう。なのでこの場合は、八咫鏡を東京に持っていく途中で一時的に保管した場所ということになる。
 どうしてここがその場所に選ばれたのか、特別な意味があったのかどうかは把握していない。鳴海八幡宮と関係があるのかないのか。

 最初に誰が古鳴海に淺間大神を祀る社もしくはお堂を建てたのか、ということが問題となる。如意寺が最初から関わっていたのかどうか。
 名古屋は淺間社があまり多くないのだけど、江戸時代に入ってから建てられたようなものはほとんどないはずで、現存するものはいずれも古い時代の創建だ。
 富士山からさほど遠くない場所にもかかわらず、富士山信仰が薄かったような印象も持っている。江戸時代は富士講などもそれなりにあっただろうけど、今はほとんど残っていない。東京にはたくさん残っている富士塚も名古屋市内にはないのではないかと思う。

 御旅所の前で毎年夏(旧暦6月30日? 新暦7月31日?)に夏越大祓で茅の輪くぐり神事が行われている。
 茅の輪くぐりといえば、スサノオ(牛頭天王)の蘇民将来伝承から来ている神事で、京都の八坂神社(祇園社 web)がよく知られている。
 淺間社で茅の輪くぐり神事をしているところはあまりないはずで、もしそれが古くから続くものであれば、ここは本当に最初から淺間社だったのだろうかという疑問も湧いてくる。
 隣接する秋葉社は江戸時代にはすでに合祀されていたようで、覆殿は大正10年(1921年)にできたものだ。

 平成28年の貼り紙に移転することが決まったと書かれていたようなのだけど、その話はどうなったのだろう。平成30年現在、まだ移っていない。
 新地は現在地より東の相生橋南詰とのことだ。
 鳴海駅北の駅前を再開発するということだろうか。歴史のある場所で、ここに神社があることに意味があるわけで、安易に動かすことはよくないと思うのだけど、それぞれ事情がある。廃社ということでなければまずはよしとしなくてはいけないのかもしれない。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

鳴海町向田の淺間社も由緒不詳

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