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若宮八幡社(西米野町)


水の気が満ちた街中のオアシス的穴場神社



若宮八幡社境内と拝殿

読み方わかみや-はちまん-しゃ(にしこめのちょう)
所在地名古屋市中村区西米野町1丁目79-2 地図
創建年不明
旧社格・等級等村社・十二等級
祭神仁徳天皇(にんとくてんのう)
アクセス地下鉄桜通線「中村区役所駅」から徒歩約3分
駐車場 なし
その他例祭 10月16日
オススメ度**

 若宮八幡社といえば、中区栄にある名古屋総鎮守の若宮八幡社(web)が名古屋ではよく知られている。
 栄の若宮八幡社も正体がよく分からない神社なのだけど、中村区の若宮八幡社についてはほとんど何も分からない。栄の若宮八幡社から勧請したのか、よその八幡社の若宮から勧請して創建したのか、そのあたりについても伝わっていない。
 ただ、少し面白いいきさつがあったことが分かっている。
 明治42年(1909年)に米野町の熊野社に合祀されたのに、昭和に入って旧氏子の希望で分離独立したというのだ。それが昭和26年(1951年)のことという。戦後復興もだいぶ進んで、うちにあった神社を取り戻そうという気運が高まったということなのだろう。
 ただし、熊野社にも若宮八幡社はそのまま残っているので、熊野社と若宮八幡社のふたつの社号標がある。



『愛知縣神社名鑑』は「創建は明かではない。古くより此地氏神として鎮座し」としている。
 若宮八幡社というのは明治に合祀される前の旧称ということだけど、もともと本当に若宮八幡社として創建された神社だったのだろうか。実際にこの神社を訪れてみると、どうもそんな気はしない。
 若宮八幡というのは、八幡神とされた応神天皇の若、つまり子供の仁徳天皇のこととされるのが一般的だ。しかし、仁徳天皇を祀るためにこの地に神社を建てるだろうかと考えると少々疑問だ。
 もともとは若宮社として祀っていたものが後世に若宮八幡社となったところが多いから、ここもそうだったかもしれない。



 江戸時代のここは米野村だった。米野村は上米野と下米野に分かれていて、現在の神社がある場所は上米野に当たる。
 今昔マップ(1888-1898年)を見ると、完全に田んぼの中だ。合祀される前はこの場所ではなかったのかと思いきや、1920年(大正9年)の地図を見ると現在地に鳥居マークが描かれているから、最初からこの場所だったと考えていいだろうか。
『尾張名所図会』(1844年)は米野村についてこう書いている。
「今上下二村あり。文和三年四月二十三日【熱田神領目録】に、愛智郡薦野郷とあるが古名にて、こもとこめと近ければ、轉じて今米の字を用ふるなり」



『寛文村々覚書』(1670年頃)の米野村の項を見るとこうなっている。
「社三ヶ所 内 八幡 権現 荒神 熱田祢宜 大原増大夫持分 社内三反二畝歩 前々除」
 八幡が若宮八幡のことで、権現は熊野権現のことだろうか。荒神については分からない。
『尾張志』(1844年)ではこうだ。
「若宮八幡社 くまのの社 金山社 サグジノ社 辨天社」
 江戸時代後期までに現状に近くなっている。金山社は長戸井町の金山神社のことで、サグジノ社が後の西宮社で、辨天社が宗像社のことだとすると、大正2年(1913年)に金山神社に合祀されている。
『寛文村々覚書』にある荒神はサグジノ社のことかもしれない。
『尾張徇行記』(1822年)は、『張州府志』に若宮祠、熊野祠、金山祠が米野村にあるとして、この三社は大原増太夫の支配だったのが、宝永2年(1705年)からは松岡左宮の支配になったと書いている。



  境内は水の気といったものが満ちている。
 龍ヶ池と名付けられた池があり、池の中島に龍徳辨財天が祀られている他、龍輝辨財天、白龍大神を祀る社がある。いずれも水にまつわる神だ。
 地理的なことをいうと、名古屋駅の西のこのあたりは低湿地帯で、古代は海の底だった。
 それでも米野あたりはわりと古くから街道沿いに集落があり、若宮八幡社も時代的にはわりとさかのぼれるのではないかと思う。
 かつては大小の川が流れており、その水害に悩まされていたであろうことは想像がつく。そこに弁才天や龍神を祀るというのは自然なことだろう。
 本社の神が何だったかを推理することは難しい。




 訪れた日はいい天気で新緑の木々が作り出す光と影のコントラストが美しかった。
 水の気と光に満たされていて境内は居心地がいい。街中にもかかわらず森の中にいるようだ。
 車で入っていくのが難しい場所にあるせいもあって、訪れる人は少ないのではないだろうか。
 ちょっとした穴場としてオススメしたくなる神社だ。




作成日 2017.5.16(最終更新日 2019.4.15)


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