現在の小川1丁目から4丁目と天目町は、1797年(寛政9年)に十四山村の佐藤五兵衛が開発した新田だったところだ。 茶屋後新田(1677年)と茶屋新田(1663年)の先を拡げる格好で干拓したもので、1797年は藤高新田(福田村の西川弥一)と同じ年に当たる。 最初は福富新田や佐藤五兵衛の名を取って五兵(ごひょう)などと称していた。 寛政・享和年間(1789-1804年)にかけて西の日光川の堤防が何度か破れて水に浸かり、所有者が何回か変わった後、享和2年(1802年)に小川伝兵衛ら3名が買い取り、文化2年(1805年)に小川新田と改称した。 小川伝兵衛は名古屋玉屋町で水口屋を営む豪商で、江戸中期の1700年代に呉服や小間物を扱って成功した。 その後、商売が傾き、新田開発に乗り出した。熱田前新田の南割も所有していた。 本業は1810年(文化7年)に廃業となり、小川新田も天保八年(1837年)と万延元年(1860年)に暴風雨と高潮で水没したというから、新田経営もなかなか上手くいなかったようだ。 『尾張徇行記』(1822年)が書かれた当時、小川新田には一軒の家があるのみで、6人が暮らしていたという。一家6人で40町以上の田んぼをやっていくのは無理だと思うけど、水没の後で集落が解散状態だったのだろうか。 『尾張志』(1844年)、『尾張徇行記』に、小川新田の神社に関する記述はない。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「創建は明かではない。小川新田開発に伴い鎮守の神として創祀せられた。明治5年7月1日、村社に列格した。昭和34年9月、伊勢湾台風により被災するも復旧す。昭和55年11月24日、現在の所に造営遷座した」
平成18年度の「市民研究報告書」によると、創建されたのは文政八年十月という。文政八年は1825年だけど、それが本当だとすれば、小川伝兵衛が買い取ってから20年以上経った後ということになる。ちょっと信じられない。 佐藤五兵衛が福富新田を開発したのが1797年で、氏神なしで新田開発を行うだろうかという疑問も抱く。 ただ、何度も堤防が破れてまともに新田経営が成り立たずに神社どころではなかったとも考えられる。『尾張徇行記』が書かれた頃は一軒しかなかったのであれば、むしろ神社などないのは当然かもしれない。1825年頃に人も戻ってきて、神社を建てようかという話になったという流れだろうか。
現在の祭神は日本武尊(ヤマトタケル)になっている。 最初からそうだったのかどうかは何とも言えない。江戸時代後期の人たちにとって熱田社の神はヤマトタケルだったのだろうか。 熱田大神を祀るとしていたのを明治になってヤマトタケルにしたのかもしれない。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、北の堤防沿いに民家が並んでいたことが分かる。南側の海沿いに家はなく、西の日光川近くにもない。この頃まではわりと民家も増えているものの、明治に入ってもたびたび堤防が決壊して田んぼは水に浸かっている。 神社は現在地よりも少し東の堤防沿いにあった。集落からは外れた南に位置している。現在の302号線のちょうど上あたりだ。 昭和55年(1980年)に旧地から少し西の現在地に移された。 小川新田全体を見ると、戦後に至るまで大きな変化はない。長らく田園地帯で、基本的には今もそれは変わっていない。海に向かって田んぼが広がっている。 1960年代に南が一部、荒れ地になっているのは何かあったのだろうか。 1970年代に戸田川の東側、今の小川一丁目に住宅が増えた。 この頃に小川2丁目に工場が建っている(今のサカエ建設)。 西隣の天目町も同じ時期に南側が工場地帯になった。 ちなみに天目町の町名は、この地が一時、東本願寺別院の所領になっていたことがあって、収穫された米を天目形の茶碗に盛って仏前に供えたことによるという。
治水技術が進んで昔に比べると安全度は高まったのだろうけど、相変わらず海抜0メートル地帯であることに変わりはなく、危険が完全に去ったわけではない。昭和19年の東南海地震では激しい地盤沈下を起こしている。 そういう警戒もあって、神社は高台に建てられている。周囲と比べてここだけ高くなっているので土を盛ったのではないかと思う。 ヤマトタケルはこれからも小川の土地と人々を守ってくれるだろうか。
作成日 2018.8.19(最終更新日 2019.7.31)
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