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稲荷社(鳴尾町ハノ割)


柴田屋新兵衛は建てたか建てなかったか



鳴尾町ハノ割稲荷社

読み方いなり-しゃ(なるおちょう-はのわり)
所在地名古屋市南区鳴尾町字八ノ割2353 地図
創建年1785年? 1756年?(江戸時代中後期)
旧社格・等級等村社・十四等級
祭神稲倉魂命(いなくらたまのみこと)
アクセス名鉄常滑線「柴田駅」から徒歩約8分
駐車場 なし
その他例祭 10月10日(10月1日?)
オススメ度

 山口源兵衛が源兵衛新田(今の源兵衛町)を作ったのが1706年(宝永3年)。その西側に更に土地を広げるべく干拓で新田開発に乗り出したのが納屋町の柴田屋新兵衛だった。源兵衛新田の完成から50年後の1756年(宝暦6年)のことだ。柴田屋新兵衛の名を取って柴田屋新田と名づけられた。
 これは天白川を挟んで北と南に分かれ、広さは約18.9町だった。後に北柴田新田と南柴田新田と呼び分けられるようになる。
 現在は北柴田新田だったところが名古屋市南区になり、南新田だったところは東海市南柴田町になっている。



 この稲荷社が創建されたのは柴田屋新田が完成した1756年という話がある一方、『愛知縣神社名鑑』は1785年(天明5年)としている。この29年の差は何を意味しているのか?
 ひとつヒントになることが『尾張徇行記』(1822年)に書かれている。
「納屋町柴田屋新兵衛トイヘル者、宝暦六年開墾シ、柴田屋新田ト称ス、天明五年御高成アリ、其時ヨリ柴田新田ト称ス」
 1756年(宝暦6年)に柴田屋新兵衛が開墾して柴田屋新田と名づけ、1785年(天明5年)に「御高成」があってそのときから柴田新田と呼ぶようになったということだ。
 問題はこの「高成」というのが何を意味するのかなのだけど、正直よく分からない。
 尾張藩は1645年(正保2年)に「高慨し」という税制改革を行って石高を決め直している。1608年に行われた備前検地が実情に沿わなくなっていたためと思われる。
 従来の石高を元高と呼び、新しい石高を概高といった。
 高成はこのへんに関係がある用語と思うのだけど、文字通りなら高が成るということで尾張藩に納める石高の収穫ができるようになったということだろうかと予想してみる。ただ、新田の開発から収穫が安定するまで30年近くかかっただろうかと考えるとちょっと違うようにも思う。
『尾張徇行記』の柴田新田の項に神社の記載はなく、『尾張志』(1844年)にもない。
 稲荷社が建てられたのは新田が完成した1756年なのか、高成となった1785年なのかの判断はつかない。ただ、新田開発が成って30年近くも神社がなかったというのも不自然に思える。新田開発をした柴田屋新兵衛が守り神として神社を建てたと考えるのが普通だ。



<追記 2018.3.4>
 ある古地図を見たら、柴田屋新田と北柴田新田、南柴田新田がそれぞれ別の場所として描かれている。もしかすると最初に柴田屋新田ができて、それが1756年で、その後北柴田新田と南柴田新田が追加で完成したのが1785年だったのかもしれない。そのうちの北柴田新田に建てられたのがこの稲荷社ということだろうか。
 高成の意味が分かればこのあたりの経緯も判明しそうだ。



 昭和35年の国道247号の拡張工事で境内が大幅に縮小された。
 同じ年に三吉稲荷大明神は拡張工事のあおりを受けて少し東南の現在地(地図)に移されている。
 三吉稲荷の旧地は名鉄柴田駅の東、柴田本通3交差点のひとつ南の交差点付近だったようだから、247号線沿いに200メートルほど離れて南北に並んでいたということになる。それぞれ源兵衛新田と柴田新田の守り神だった。
 今昔マップで明治以降を辿ると町並みの移り変わりを見て取ることができる。
 道路拡張工事前年の昭和34年の伊勢湾台風では、このあたりも大きな被害を受けた。天白川の堤防が決壊して水が流れ込んだだけでなく貯木場の木材が町を襲い、家屋が流され多くの犠牲者も出した。
 ただ、三吉稲荷も北柴田新田の稲荷社も倒壊したという話は伝わっていないから大きな被害は免れたのだろうか。



 神社がある鳴尾町は、大正10年(1921年)に愛知郡笠寺村大字鳴尾を名古屋市南区に編入して成立した。
 このあたりは古くから「なるを」と呼ばれていたので、そこから地名(町名)は来ている。
 字名のハノ割は数字の八(はち)ではなくイロハのハだ。「はのわり」と読む。これはおそらく、新田の区割りをイロハ順に名づけた名残だと思う。天白川を挟んだ南の東海市南柴田町にはイノ割、ロノ割、チノ割、ヌノ割など、イロハ割の地名が多く残っている。



 祭神は稲荷社では一般的な宇迦之御魂(ウカノミタマ)ではなく、稲倉魂命(イナクラタマ)としている。
 宇迦之御魂は『古事記』の表記で、『日本書紀』では倉稲魂尊としていることから、宇迦之御(倉稲魂)と稲倉魂は同一神ともされる。
 神社本庁への登録をあえて稲倉魂命としたということは何か特別な意味があったのか、こだわりでもあったのか。
 この稲荷社を創建したのが柴田屋新兵衛だったのか、後の人間だったのか、どこから勧請したのか、それによっても事情は違ってくる。



 境内社に、秋葉社、津島社、琴飛羅社、神明社、稲荷社と青峯観音がある。
 青峰山と青峰信仰については三吉稲荷大明神のページに書いた。漁業関係者の守り神として信仰されてきた。
 琴飛羅社も水にまつわる守り神の金毘羅さんだ。
 境外社として竜神社があり、それは柴田水処理センターの敷地内にある櫻ノ宮龍神地図)のことのようだ。 



 創建年が1756年か1785年かは、小さいようで大きな問題だ。神社の側の話を信じるべきか、『愛知縣神社名鑑』を信じるべきか。




作成日 2018.2.28(最終更新日 2019.8.21)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

北柴田新田の守り神だった稲荷社

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