神明社(五軒家)

かつての檀渓の風景は失われてしまったけれど

五軒家神明社

読み方 しんめい-しゃ(ごけんや)
所在地 名古屋市昭和区五軒家町19-14 地図
創建年 1632年(江戸時代前期)
旧社格・等級等 無格社・十四等級
祭神 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
アクセス 地下鉄鶴舞線「いりなか駅」から徒歩約15分
駐車場 なし
その他 例祭 10月17日
オススメ度

 山崎川に架かる檀渓橋を東に進んで少し行った左手の高台に、その神明社はある。階段を登ると正面に拝殿が現れる。
 高台の見晴らしのいい場所は遠くを眺めるにはいいけど、開けた神社というのはちょっとどうなんだろうと思う。開放感が強すぎてなんだか落ち着かない。

 檀渓橋(だんけいばし)のたもとに、かなり傷んだ石碑が建っている。それには「檀渓之勝蹟」と刻まれている。
 かつてこのあたりが檀渓(だんけい)と呼ばれる景勝地だったことを知る名古屋人は少ない。
『尾張名所図会』(1844年)に山奥の渓谷かと思うような絵図が描かれてる。ちょっとおおげさにいえば、深山幽谷(しんざんゆうこく)といった風情だ。
「檀渓 川名川(かわながわ)の下流にして深淵なり。此邊十五軒屋とよぶ地なり。新豊寺山へ至る道にて、土橋を架し樋(かけひ)を伏せて、幽邃(ゆうすい)いふばかりなし。文人□流(しりゅう)常に閑情を暢□(ちょうじょ)する小仙境(しょうせんきょう)ともいふべし」
 かなりの渓谷ぶりが伝わってくる。
 檀渓というのは、白林禅寺の檀渓和尚がこの地に庵を結んで暮らしていたことから名付けられたとされる。
 檀渓之勝蹟の石碑は第二次大戦の空襲で折れてしまったものを、平成3年(1991年)に住人が修繕した。
 五軒家という地名は、江戸時代前期に藤成新田ができたとき、この辺りに民家が5軒あったことから来ている。
 八事丘陵の裾野ということで大規模な農耕には適さない土地だった。
 それから130年余り経った現在、景勝地だった檀渓はかつての面影さえ残っていない。川はきれいに整備され、橋は変哲のないものとなり、木々は切り倒された。周りには民家やマンションが建ち並ぶありふれた街の風景が広がるばかりだ。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「社伝に寛永九年壬申年(1632)藤成新田五軒家の氏神として奉斎し始め神明山に鎮座したが明治三十五年、今の社地に遷座する。昭和13年、明細帳脱漏編入許可となる」

 元地の神明山がどこだったのかが分かればいいのだけど、調べがつかなかった。
 藤成新田の開発が始まったのは1646年頃とされる。『尾張徇行記』(1822年)に「石仏村内 藤成新田」とあるので、石仏村の支村という位置づけだったようだ。
 五軒家の集落は藤成新田の東の外れに当たる。この集落がいつできたのかは分からないのだけど、1646年の藤成新田開発より前の1632年に神社が建てられたというのであれば、もともとは石仏村の神社だったということだろうか。あるいは、藤成新田開発以前にすでに五軒家の集落ができていたということか。
 ちなみに、白林寺の住職だった檀渓和尚が五軒家に移り住んだのが1647年という。藤成新田は1659年に白林寺の寺領になった。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、神社があるところから北のマンションが集まっているエリアにかけて五軒家の集落があったことが分かる。
 神社に隣接する尚文寺は浄土宗の寺のようだけど、いつ建てられたものかは分からない。『尾張志』(1844年)には載っていないので、明治以降なのか、別の場所から移されてきたものか。
 五軒家のあたりが区画整理されて住宅地になったのは1930年代以降のことだった。

「明細帳脱漏編入許可」というのは、神社台帳から漏れていたので申告して編入してもらったということだ。
 明治5年(1872年)に神祇省が地方庁に神社明細帳を作ることを命じ、明治12年(1879年)に内務省が明細帳を作った。
 大正2年(1913年)にもあらたに明細帳を作ったようだ。
 この神明社はそれに漏れていたので、入れてくれるよう申請したということだったのだろう。かなり手続きがややこしかったようなので時間がかかったのかもしれない。
 昭和13年といえば、日中戦争が始まった翌年だ。まだまだ国内では変わらない日常があった頃だろう。空襲でこの辺りに爆弾が落ちるなんて考えもしなかったんじゃないだろうか。

 この神社が最初からアマテラスを祀る神明社として建てられたのかどうかは分からない。1632年といえば江戸時代前期で、お伊勢参りはまだ流行してない。
 戦国時代が終わって30年ちょっと。大坂夏の陣が1615年。戦争を経験していない世代が増えた頃だ。
 とはいえ、まだ戦国の世を知っている人たちは大勢いたわけで、そういった人たちやその子供世代が藩士となり農民となり、新田を開拓して移り住み、そこの守り神としてアマテラスを選ぶだろうかと考えると、当初は神明社ではなかったのではないかとも思う。
 江戸時代中期以降の人たちの気持ちや気分はなんとなく分かる気がするのだけど、江戸時代前期の人たちのことは分からない部分が多い。
 もっと素朴な信心から来るお天道様信仰みたいなものが始めにあったのかもしれない。
 江戸時代前期の農民にとって皇祖神であるアマテラスはどんな存在だったのだろう。

 拝殿前に二体のライオン像が伏せている。ライオンズマンションの前にあるライオン像みたいだ。
 戦後の昭和20年代にどこかの屋敷にあったものを寄贈されたらしい。
 その頃、この神社には狛犬がなかったので、ちょうどいいということでこれを狛犬の代わりに置いたのだとか。
 狛犬のルーツを辿ると、古代インドのライオン像に行きつくから、ある意味では先祖返りといえる。更にいえば、エジプトのスフィンクスを起源とするともいう。
 中国に入ると獅子という伝説の生きものとなり、それが朝鮮半島を通って仏教とともに日本に入ってきた。
 日本にはライオンがいなかったため、犬と思われ、狛犬と名付けられた。狛犬も架空の霊獣だ。
 朝鮮から入ってきたので高麗犬から転じたという説は俗説のような気がする。古くは胡摩犬とも書かれ、異民族の獣のような意味で呼ばれたのではないかと想像するけどどうだろう。
 二対で狛犬と思っている人も多いと思うけど、もともとは狛犬と獅子だった。口を開けている阿形(あぎょう)が獅子で角がなく、口を閉じている吽形(うんぎょう)が狛犬で角を持っている。
 向かって左が獅子で、右が狛犬というところが多いけど、特に決まりはないらしい。
 狛犬と獅子が神社に置かれるようになったのは平安時代中期以降のことで、一般化したのはもっと後の時代だった。なので、伊勢の神宮(web)などの古い神社に狛犬と獅子はいない。

 もはや檀渓の風景は完全に失われてしまったけれど、その代わりに山崎川は桜の名所となった。毎年春には大勢の人たちが見物に訪れる。
 五軒家神明社の神様も毎年それを楽しみにしているんじゃないだろうか。

 

作成日 2017.8.29(最終更新日 2019.3.17)

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