八劔社(長良町)

これが長良村の八劔社なら創建は江戸期以前

長良八劔社

読み方 はっけん-しゃ(ながら-ちょう)
所在地 名古屋市中川区 長良町4丁目129 地図
創建年 不明(1736年とも)
社格等 村社・十等級
祭神

熱田皇大神(あつたのすめおおかみ)

 アクセス

・あおなみ線「小本駅」から徒歩約19分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 情報に混乱が見られて理解するのがちょっと難しい神社だ。
 現在の住所は長良4丁目で、江戸時代は長良村(ながら-むら)だったところだと思う。とりあえずその前提で話を進めたい。
 中川区の北エリアなので、ここは干拓でできた新田村ではない。
 神社の少し北を佐屋街道が通っているから、わりと古くから人が暮らしていた土地ではなかったかと思う。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社の創建についてこう書いている。
「創建は明かではないが、桜町天皇(1736-48)の頃熱田神宮より勧請し創祀すると伝える」
 江戸時代中期の1740年前後の創建というのは本当だろうか。ちょっと信じられない。
 というのも、1655年から1658年に行われた調査をまとめた『寛文村々覚書』の長良村の項に八劔が載っているからだ。
 しかも、前々除となっているということは、1608年の備前検地以前に除地(年貢や雑役を免除された土地)となっていたことを意味するから、創建はそれ以前ということになる。
 桜町天皇の頃の創建というのはどこから出てきた話なのか。何の根拠もないとは思えないから、その頃に再建されたとか、合祀したとか、遷座したとかがあったのかもしれない。
 長良村にあった八劔社と現在長良町にある八劔社が別物という可能性はあるのだろうか。

 混乱は長良村にあった神社にもいえる。
『寛文村々覚書』(1655-1658年)にはこうある。
「社三社 内 八劔 天神 白山 熱田与大夫持分 社内壱反六畝七歩 前々除」
 1822年完成の『尾張徇行記』ではこうなっている。
「八劔社天神社白山社界内一反六畝七歩前々除熱田祠官掌之」
「熱田社家松岡斎宮太夫書上帳ニ八劔社内一反八畝余末社八幡社白山社内三畝天神社五畝共ニ御除地」
 それが1844年完成の『尾張志』になるとこうなる。
「八劔ノ社 熊野ノ社 天神ノ社 この三社長良むらにあり」
 八劔社、白山社、天神社はそれぞれ独立した神社だったのか、八劔社の末社だったのか。八幡社は後から増えたのか。
『尾張志』で熊野社が入ってきているのはどういうことだろう。代わりに白山社が消えている。これは『尾張志』の間違いだろうか。
 現在、長良町には八劔社があるのみで他の神社はない。
 境内社として白山大権現、天満社、津島社、秋葉社がある。
 本社に合祀されているという神明社がどこから来たのかは分からない。
  情報としても混乱しているし、私の頭の中も混乱している。

 長良村(ながらむら)の由来について津田正生は『尾張国地名考』の中で、「長浦の釣るなり良はかな書なり」としている。
 長浦(ながうら)が略されたものだというのだ。
 浦(うら)は、浜(はま)、磯(いそ)に対する言い方で、くねくねした複雑な地形の海岸線(湖岸線)をいう。
 そこから転じて海沿いの集落を指す言葉としても使われた。
 長良村のあたりまで海岸線だったのは遠い昔のことだから、この説は当たっていないかもしれない。川幅の広い中川の川沿いではあったから、川辺の集落という意味だっただろうか。

  特殊神事として、毎年10月10日に湯取神事が行われていたという。
 始まったのは江戸時代後期の天保年間(1830-1844年)というからそれほど古いものではないのだけど、名古屋でこの神事を行っている神社はあまりない。さほど遠くない牛立八幡社でも同様の神事が行われているから、何かつながりがあるかもしれない。
 現在は大晦日の日に、神湯を笹竹で振りかけて万病除けとしているそうだ。

 少し釈然としないものが残ったけど、ここも佐屋街道沿いの八劔社のひとつということで、他とあわせて総合的に考える必要がありそうだ。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

木造社殿がカッコイイ長良の八劔社

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