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八劔社(長良町)

長良村の三社が集まっている

長良八劔社

読み方 はっけん-しゃ(ながら-ちょう)
所在地 名古屋市中川区長良町4丁目129 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 指定村社・十等級
祭神 熱田皇大神(あつたのすめおおかみ)
アクセス あおなみ線「小本駅」から徒歩約19分
駐車場 なし
その他 例祭 10月10日
オススメ度

 江戸時代の長良村(ながら-むら)にあった神社のひとつ。
 白山、天神、八劔のうち、残ったのはこの八劔で、白山と天神は八劔の境内社となっている。それぞれ独立した社号標と鳥居を持ち、「白山大権現」、「天満宮」となっている。
 今昔マップ(1888-1898年)を見ると、八劔社があったのは中心集落から少し南の外れにあった集落の中だったことが分かる。
 村の中央を佐屋街道が通っており、街道沿いにできた集落ということがいえそうだ。佐屋路は江戸時代に整備される以前からある古い道なので、集落自体も古いかもしれない。

 長良村の由来について津田正生は『尾張国地名考』の中で、「長浦の釣るなり良はかな書なり」としている。
 長浦(ながうら)が略されたものだというのだ。
 浦(うら)は、浜(はま)、磯(いそ)に対する言い方で、くねくねした複雑な地形の海岸線(湖岸線)をいう。そこから転じて海沿いの集落を指す言葉としても使われた。
 長良村のあたりまで海岸線だったのは遠い昔のことだから、この説は当たっていないかもしれない。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は明かではないが、桜町天皇(1736-1748)の頃熱田神宮より勧請し創祀すると伝える。明治5年7月村社に列格し、明治40年10月26日供進指定社となった」
 しかし、1670年頃にまとめられた『寛文村々覚書』にすでに載っていることから、1736-1748年の創祀ということはおそらくないだろう。前々除となっているから少なくとも創建は1608年の備前検地以前にさかのぼる。
『寛文村々覚書』はこうなっている。
「社三社 内 八劔 天神 白山 熱田 与大夫持分 社内壱反六畝七歩 前々除」
 1822年完成の『尾張徇行記』はこう書く。
「八劔社天神社白山社界内一反六畝七歩前々除熱田祠官掌之」
「熱田社家松岡斎宮太夫書上帳ニ八劔社内一反八畝余末社八幡社白山社内三畝天神社五畝共ニ御除地」
 それが1844年完成の『尾張志』になるとこうなる。
「八劔ノ社 熊野ノ社 天神ノ社 この三社長良むらにあり」
 何故か白山が熊野になっている。『尾張志』が間違えたのか、実際に熊野社になっていた時代があったのか判断がつかない。上に書いたように、現在の境内社は白山大権現となっているので、やはり熊野になったことはないのかもしれない。
 その他の境内社として津島社と秋葉社がある。

 桜町天皇の頃の創建というのはどこから出てきた話なのか。何の根拠もないとは思えないから、その頃に再建されたとか、合祀したとか、遷座したとかがあっただろうか。

  特殊神事として、毎年10月10日に湯取神事が行われていると『愛知縣神社名鑑』は書いている。始まったのは江戸時代後期の天保年間(1830-1844年)というからそれほど古いものではないのだけど、名古屋でこの神事を行っている神社はあまりない。それほど遠くない牛立八幡社でも同様の神事が行われているから、何かつながりがあるかもしれない。
 現在は大晦日の日に、神湯を笹竹で振りかけて万病除けとしているそうだ。
 7月8日には境内社の津島社の祭礼として茅輪くぐりも行っているようだ。

 

作成日 2017.7.18(最終更新日 2019.6.20)

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