稲穂社(椿町)

鉄格子に守られる都会の神社

椿稲穂社

読み方 いなほ-しゃ(つばきちょう)
所在地 名古屋市中村区椿町18-5 地図
創建年 不明(1789-1801年以前?)
旧社格・等級等 無格社・十五等級
祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
アクセス 鉄道各社「名古屋駅」から徒歩約5分
駐車場 なし
その他 例祭 10月16日
オススメ度

 名古屋駅西口を出て徒歩5分。多くの人が行き交う通り沿いにこの神社はある。
 駅から直線距離で240メートル。椿神明社よりもこちらの方がわずかに近いか。
 椿神明社と同じように、ここ稲穂社も檻に入れられ厳重に守られている。不審者の侵入を防ぐという目的かもしれないけど、神様が檻に閉じ込められているように見えてしまう。
 平成9年(1997年)には不審火で拝殿が焼失したというからそれ以降のことだろうか。

 笹島にあった名古屋駅が現在の場所に移されたのが昭和12年(1937年)。
 それまでこのあたりは賑わっているとは言えない住宅地でしかなかった。笹島のあたりもアシが茂る湿地だったという。
 江戸時代は牧野村と呼ばれていた。
 江戸時代後期の1832年、何もない土地をあらたに開墾すべく、牧野村の住人12戸がこの地に移住してきて集落を作った。その後ここは牧野出郷と呼ばれることになる。
 境内の由緒書きによると、文政9年(1826年)に神社がこの地に鎮座し、牧野出郷として12戸の民家が建ったのが天保2年(1831年)という。
 神社が先で、後から12戸の人たちが引っ越してきたという順番だったようだ。
 それに対して『愛知縣神社名鑑』は牧野出郷が成立したのは天保3年(1832年)とする。神社がこの地に鎮座したのが1826年(文政9年)というのは神社の由緒と同じだ。
 ただ、気になったのは「寛政の棟札を社蔵する」と書いている点だ。
 寛政は1789-1801年だから、その時期にすでに神社はあったということになる。だとすれば牧野村の中にあったということなのだろう。
 整理すると、1789-1801年の棟札が創建のものなのか再建のものなのかは分からないのだけどとにかくそのときは牧野村にあって、1826年に牧野出郷となる場所に移され、1831年または1832年に12戸の人たちが越してきて神社のある場所に出郷を作ったという経緯だったと理解していいだろうか。
『寛文村々覚書』(1670年)、『尾張徇行記』(1822年)、『尾張志』(1844年)にこの神社に相当するものは載っていない。
 ただ、牧野5社(椿神明社、牧野神明社須佐之男社厳島神社)と呼ばれる神社のうちの1社なので、江戸時代後期以降は存在感を示していたといえそうだ。

 昭和20年3月の空襲により焼失。このとき名古屋駅も焼けている。
 昭和26年に再建。
 昭和40年、名古屋駅西の都市改造事業により現在地に移転。
 今昔マップで明治以降の変遷を辿ってみても旧地がどこだったのかは調べがつかなかった。

 現在、社殿は三社並んでおり、稲穂稲荷社、稲穂社、稲穂秋葉社となっている。
 もともとここは稲荷社ではなく稲穂社という名前だっただろうか。祭神は最初から宇迦之御魂神(ウカノミタマ)だったかどうか。現在の祭神はウカノミタマ一柱となっている。
 稲荷社と秋葉社は後から合祀されたものだと思うけど、そのあたりのいきさつについての情報も得られていない。

 この神社を訪ねると、いきなり入り口の門が閉まっていて、なんだ? 私を入れない気か? と思う。
 でも大丈夫、夜間は閉めるのだろうけど、日中は開いているので門を開けて中に入っていっていくことができる。
 ただし、社殿がある前の鉄格子は鍵が閉まっていてそれ以上の進入を拒む。賽銭も鉄格子越しに入れないといけない。
 神様が動物園の檻に入れられているような、自分が檻に入っているような、ちょっと切ない感情に襲われる。
 こんな鉄格子にしなくても、もう少しやり方があると思うだのけどどうだろう。
 いつか鉄格子を外しても大丈夫なくらい平和な世の中が訪れることを願うしかないか。

 

作成日 2017.6.30(最終更新日 2019.5.1)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

都会の中に生き残った稲穂社

HOME 中村区



Scroll Up