東区の東エリアから千種区の西エリア一帯はスサノオを祀る須佐之男社の密集地区となっている。その多くが江戸時代の中頃に、疫病除けのために牛頭天王を祀った天王社だった。明治の神仏分離令で祭神を須佐之男命に変更させられ、社名も須佐之男社(素盞男社)となった。 江戸時代のこのあたりは名古屋城下の東の外れで、中級・下級武士の屋敷が集まる町だった。すぐ東は田畑や荒れ地が広がっていた。 これらの天王社(須佐之男社)が創建されたのは、1700年代半ばから後半にかけてだったようだ。 千種区松軒にある素盞男社や千種区内山にあって中村区日吉町に移された素盞男神社、東区水筒先町にあって昭和区広路町に移された須佐之男神社は1773年創建とされる。 もともと東区車道にあって昭和区汐見町に移された須佐之男社は1781年創建という。 1767年に庄内川が氾濫して疫病が流行ったのと、1770年に城下で大規模な火事が起きたことで、尾張藩九代藩主の徳川宗睦(とくがわむねちか/むねよし)が城下の人たちに疫病除けのための天王社と火防のための秋葉権現を祀ることを奨励したことがひとつきっかけとしてあったようだ。
東区の出来町一帯に3つの須佐之男社があり、古出来にあるものを東之切、出来町にあるものを中之切、新出来にあるものを西之切と呼んでいる。これらの須佐之男社の創建年については伝わっていないものの、上記の天王社(須佐之男社)と同時期だったと考えてよさそうだ。 3社はそれぞれからくりを持つ山車(だし)を所有しており、出来町天王祭のときは3つの山車をあわせて曳き回していることからも、3社でワンセットのようなところがある。
古出来の東之切須佐之男社について『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「文化二年(1805)祭車の出現をみた記録によれば、それ以前村の氏神として鎮座した。明治10年11月、据置公許となる。昭和55年4月10日、十五等級社より十四等級社に昇級する。(天王社)」
神社の創建や歴史よりも山車祭の方がメインとなっている。これは他の2社の須佐之男社についての記述でもそうだ。 3つの地区それぞれが山車で競い合って発展してきたのが出来町の須佐之男社の歴史といえるかもしれない。
このあたりは古くは春日井郡上野村の一部で古屋町と呼ばれていた。 寛文年間(1661-1673年)から出来町と改めた。文字通り、町が出来たからそう名付けられたわけだ。名古屋城下は時代が進んで人口が増えるにつれて南へ東へと広がっていった。 元禄十五年(1702年)に出来町の西に新出来町ができたため、区別するために古出来町と呼ぶようになった。 江戸時代を通じて名古屋新田の一部でもあった。
例祭は毎年6月の第一土日に行われている。 3つの須佐之男社が所有する山車を曳いて町内を練り歩き、からくりを披露する。 古出来・東之切の須佐之男社が所有する山車は王羲之車(おうぎししゃ)と名付けられている。 江戸時代の寛保年間(1741-1744年)に別の町で建造されたものを文化2年(1805年)に譲り受けた。 しかし、空襲で焼失してしまったため、戦後の昭和20年代に再建した。 雲竜、海龍の彫刻が施され、水引幕には麒麟、鳳凰、亀、龍、虎の刺繍があしらわれている。 人形は屋台に唐冠りの大将(王羲之)と親木偶(おやでく)・子木偶(こでく)の唐子人形が各1体、前棚に麾振(ざいふ)り1体が乗っている。 からくりは獅子頭をつけた子木偶が軍配団扇を持った親木偶の肩に手をかけて逆立ちしをして獅子を舞う。 筒井町が持っている2つの山車をあわせて徳川園(web)で山車揃(だしぞろえ)が行われる他、名古屋まつり(web)では他の地区の山車とあわせて9車の山車揃がある。
このように出来町の須佐之男社は、もはや創建がどうの牛頭天王や須佐之男がどうのということよりも山車祭をするために存在しているといっても言い過ぎではない。狭い境内の半分くらいは山車庫が占めている。 山車祭のおかげで地区の中と外で人がつながり、神社もこうして存続してきたことを思えば、山車が果たした役割は大きい。神社にはそういう一面もあり、それも大事な役割だった。 明治になってよそに引っ越していった須佐之男社も、それぞれの地区で氏神となっている。東区、千種区にそのまま残ってたら数が多すぎるということで廃社になっていたかもしれない。 何が幸いして何が災いとなるか分からないのは人生も神社も同じだ。
作成日 2018.2.3(最終更新日 2019.2.21)
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