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八幡社(千年2)

新田開発のとき尾張御下屋敷から移されたという

千年八幡神社

読み方 はちまん-しゃ(ちとせ)
所在地 名古屋市熱田区千年2丁目36 地図
創建年 1837年(江戸時代後期)
旧社格・等級等 指定村社・十二等級
祭神 誉田別命(ほんだわけのみこと)
アクセス 地下鉄名港線「東海通駅」から徒歩約20分
名鉄常滑線「豊田本町駅」から徒歩約27分
駐車場 なし
その他 例祭 10月15日
オススメ度

 熱田区の南エリアにある神社は、新田開発にまつわるものが多い。
 江戸時代前期まで、熱田の宮の渡しより西南は海だった。江戸時代に干拓によって西へ南へと土地を広げていった。そうやって新しくできた新田の集落に氏神として神社が建てられていった。
 千年の八幡神社もまた新田開発とともに生まれた神社なのだけど、他とは少し事情が違っている。

 千年は「ちとせ」と読ませる。この地名の由来としてちょっと面白い話が伝わっている。
 江戸時代後期の天保年間(1830年-1844年)、村の名前をあらたに決めることになり、村人たちが集まって相談していた。しかし、いくつも候補が挙がってなかなか決まらず、とうとう朝を迎えてしまった。気分一新するため部屋の空気を入れ換えようと戸を開けると、朝日を浴びる鶴の姿があった。それを見た村人のひとりが叫んだ。
「鶴は千年!」
「そうだ、千年にしよう!」
 ということで千年村に決まったのだと。
 ただ、話としては面白いけど、本当ではないようだ。千年村が誕生したのは明治9年(1876年)のことで、船方新田と作良新田(改称前は熱田築地前新田)が合併して新しく生まれた村の名前が千年村だったというのが実際のところだ。
 それ以前、このあたり一帯は小碓村(おうすむら)と呼ばれていた。ヤマトタケルの元の名、小碓命(おうすのみこと)に由来する。

  熱田築地前新田は1837年に開発された新田で、江戸時代としては最後に開発された新田ということになる。尾張藩が主導して、藩地方勘定所が担当した。
 1853年に伊藤、関戸、内田の三家に譲渡され、1861年に 作良新田と改称された。

『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「社伝に元尾張藩主下屋敷の南庭に鎮座したが、天保八年(1837)11月熱田築地前新田の開発に際し、今の社地より南に二十間(三十六米)の所、千年イノ割三三三番地に遷座し、千年町の氏神として崇敬あつく、明治5年、村社に列格し、翌6年さらに現在地に遷座した。昭和10年9月17日指定社となる。昭和20年6月空襲にて社殿炎上、昭和22年仮本殿、昭和34年9月伊勢湾台風に再び被災、昭和35年本殿を造営、昭和54年5月3日、本殿・拝殿を造営、昭和62年2月社務所を改築する」
 熱田築地前新田は尾張藩が主導して開発に当たったということで、尾張藩に関係する八幡を新田の集落に譲る形になったというのは分かるのだけど、下屋敷がどこのことをいっているのかが分からない。
 通常、藩主(大名)の下屋敷というと江戸にあった藩邸のことをいう。たいていの藩は上屋敷と下屋敷を江戸に持っており、大きな藩は中屋敷もあった。
 尾張藩主の下屋敷というと、2代藩主光友が作らせた江戸の戸山山荘がよく知られている。現在の戸山公園(地図)は、光友が作らせた回遊式庭園が元になっている。16万坪という広大な敷地の中に、箱根山に見立てた築山を築き、小田原宿を模した建物を並べるなど、東海道沿いの風景を再現した江戸のテーマパークのようなものだった。
 その箱根山は標高44.6メートルで、現在でも山手線の内側でもっとも標高が高い山となっている。
 この江戸の戸山山荘にあった八幡社を熱田に移したのか、そうではないのか。戸山山荘の近くには穴八幡もあった。
 尾張の国元の下屋敷というと、光友が隠居所として建てた大曽根屋敷がある。ただ、そこは光友の死後に家老の成瀬氏などに所有が移っているから違うような気がする(明治になって徳川家に所有が移り、のちに徳川美術館/webと徳川園/webが作られる)。
 ちなみに、尾張藩の江戸の上屋敷は市ヶ谷にあり、中屋敷は2つ、下屋敷は6つあった。

『名古屋市史 社寺編』(大正4年/1915年)は少し違うことを書いている。
 それによると勧請の年月は詳らかではなく、もともと名古屋城内北の御庭にあったものを天保8年に現在地の二十間南に移したといっている。
 城内北の御庭といえば、天守北西の御深井丸(おふけまる)と呼ばれた場所のことだ。しかし、江戸時代を通じてここに八幡があったという話は聞かない。
 その後、天保9年、安政2年、万延元年、明治3年に水に浸かって徳川家からいただいたものはすべて流されてしまったという。
 現在地に移されたのはここでは明治6年か7年とする。

 昭和に入っても空襲で焼け、伊勢湾台風で被害に遭うなど、苦労は続く。
 現在の社殿は昭和54年(昭和50年とも)に建て直されたもののようだ。
 残念ながらかつての尾張徳川家の威光といったものは感じられない神社になってしまっている。葵の紋なども見当たらなかった。
 蕃塀と拝殿がピンクと白のツートンカラーで塗られているのは宮司さんの趣味だろうか。本殿は流造でわりと渋い感じなのでギャップがある。狛犬や灯籠などは年季が入っている。
 元の八幡がいつどこで誰によって建てられたかがはっきりすればもう少し分かることもあるかもしれない。
 この地に移ってきてから180年。千年の名前の通り千年の歴史を持つにはもう少し時間がかかる。29世紀もまだ八幡神社は今の場所に建ち続けているだろうか。

 

【追記】
 この神社について調べられた方から情報をいただいたので追記します。

『愛知県神社名鑑』がいうところの”元尾張藩主下屋敷の南庭”は江戸の下屋敷(しもやしき)ではなく尾張藩2代藩主光友が建てて隠居屋敷とした御下屋敷(おしたやしき)のことだそうだ。
 それならそうと『愛知県神社名鑑』もそう書いてくれればよかったのに、なんでこんな紛らわしい書き方をしたのだろう。
 光友の御下屋敷にあった八幡を移したというなら、あの八幡のことかとピンと来た。
 現在の東区片山八幡神社のところで書いたのだけど、引用すると以下の部分だ。

”津田正生は『尾張国地名考』の中で、【瀧川弘美曰】として次のように書いている。
「(延喜式にある片山神社は)大曽根八幡の地是なり 宮地は往昔の山田郡片山天神にして 祭神大伴武日命 もとは大曽根の産神なりしに元禄中瑞龍院公の御時是は何の神かと御尋ありしに里人しらず候と答ふよりて吉見氏へ御尋ありければ傍題に八幡宮と申上しかば御造営ありて大曽根御屋敷乾方の守護神に祭り玉へり(攻略)」”

 これだけでは少し分かりづらいので補足すると、光友は1693年に隠居して藩主の座を息子の綱誠に譲り、自分はその2年後の1695年に御下屋敷に移ってそこを隠居屋敷とした。
 御下屋敷は1679年に光友が休憩と饗応のために築かせた屋敷だった(第7代藩主の宗春は将軍の吉宗に蟄居謹慎を命じられてこの屋敷で過ごしている)。
 この屋敷の裏手筋にあった神社の前を通りかかったとき、その神社が荒れ果てていたので、これは何の神を祀っているのかと里人に訊ねると分からないといい、名古屋東照宮の神官をしていた吉見民部大輔に訊くと八幡だというので八幡社ということになり、吉見民部大輔と息子の左京大夫に造営させ、自分の屋敷内にもこの神社から勧請して八幡社を建てたという流れだ。
 御下屋敷に八幡があったことは御下屋敷旧記(年代作者不詳)にも記載がある(Webで閲覧可能)。

 尾張徳川家と八幡には何かと縁があった。
 そもそも家康は自分が征夷大将軍となるために清和源氏の家系と自称したということがある(そんなわけはないのだけど)。
 源氏の守護神といえば八幡神だ。
 尾張藩初代藩主の義直の母・お亀の方は父が京都・石清水八幡宮(web)の祀官家・田中氏(紀姓田中氏)の分家の志水宗清で、母は石清水八幡宮神主の田中甲清の娘だった。
 戸山の江戸下屋敷には穴八幡が隣接していたし、市ヶ谷の上屋敷の隣には市ヶ谷八幡があり、市ヶ谷上屋敷の邸内には八幡宮を祀っていた。

 以上のことからして、千年の八幡社はもともと大曽根八幡から勧請して光友が御下屋敷の庭に祀っていたものを、1837年に熱田築地前新田の開発が成ったときに移したものという理解でいいのではないかと思う。
 ただ、神社明細帳では1841(天保12)年 4月となっているそうで、食い違いが見られるのは気になるところだ。熱田築地前新田完成の1837年とするのと、その4年後の1841年ではだいぶ意味合いが違ってくる。
 この点は解決できない疑問点として残った。
 創建の経緯などがまったく分からなかった千年1丁目の八幡神社は、この千年1丁目の八幡社から勧請したものだということも教えていただいた。

 

作成日 2017.5.8(最終更新日 2020.10.15)

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