川間町にある川間公園の片隅に場所を与えられて鎮座している。この一角に木々が生い茂り、やや異彩を放っている。もはや鎮守の杜といえるほどで、公園神社とは呼ばせないというほどの風格と一種の威圧感がある。
この地は江戸時代前期の1646-1649年に干拓によって作られた熱田新田の中の二十番割だったところだ。 熱田新田は東の熱田湊から西の庄内川までの広い範囲を干拓して築造した新田で、一番割から三十三番割に分けられていた。縦に細切りしたような格好だ。一番割から十一番割を東組、十二番割から三十三番割までを西組といっていた。 神社がある川間町(かわまちょう)が小碓町の一部より成立したのが昭和36年(1961年)。 東の中川と西の荒子川に挟まれた地区だから川間と名づけられたとされる。あるいは、南の東海通に沿って流れていたオタラク川と北の中部鋼板の南を流れる用水路との間だったのが由来ともいう。中川と荒子川に挟まれたエリアは広いから、由来としては後者の方が可能性が高そうだ。 現在国道1号線が走っているあたりが熱田新田の北側で、堤防道路を百曲街道(ひゃくまがりかいどう)といっていた。人が歩いて自然にできた道でくねくね曲がっていたことからそう呼ばれるようになったとされる。
神社南にある名古屋競馬場(web)ができたのは戦後の昭和24年(1949年)のことだ。 かつての土古山新田(どんこやましんでん)だったところで後に土古町(どんごちょう)となったこともあり、土古競馬場とも呼ばれている。 戦時中の川間や土古は三菱の軍需工場で働く人たちの住居があったくらいで周囲は田んぼだらけだったからよかったのだけど、時代が進むとあたりは住宅地になり場外厩舎が問題されるようになる。場外厩舎は分散して寛政町、本宮町、川間町にあり、匂いがきついと苦情も多かったという。それらが弥富トレーニングセンターに移されたのは昭和52年(1977年)のことだ。 昭和34年(1959年)の伊勢湾台風のときは、名古屋競馬場が避難所となった。 営業的には長らく不振で赤字続きだったのが、あおなみ線の開通もあり事態は好転した。近年は馬券のネット販売をしたり、ネット配信でライブ中継をするなどの営業努力が実り、累積赤字が解消されただけでなく2017年度は黒字に転じた。 問題はむしろあおなみ線の方だ。 名古屋臨海高速鉄道あおなみ線が開通したのが平成16年(2004年)で、これは西臨港貨物線を旅客線化したもので第三セクターが運営している。 鉄道空白地帯を埋めるという目的だったのが、当初の見込みが甘く、名古屋市と愛知県のお荷物路線となっている。 大きな累積赤字を抱え、2011年に事実上経営破綻しているものを名古屋市と愛知県が出資して何とか持ちこたえている状態だ。JR東海から代表取締役を迎えて経営立て直しを図っている。 ただ、近年、リニア・鉄道館(web)やレゴランド・ジャパン(web)が金城ふ頭にできたことから乗客数は上向きということでやや希望が出てきた。 名古屋市長の河村たかし氏は、以前からあおなみ線に蒸気機関車を走らせる構想を発表しており、2013年に実験走行が行われた。それ自体は盛況だったものの、借り受ける蒸気機関車やそれを走らせる運転士や整備士の問題もあり、実現は難しいのが現状だ。沿線沿いは住宅地で、煙や音のこともある。 蒸気機関車もいいけど、それより金城ふ頭と名古屋港の連絡をどうにかすることの方が先だと思う。金城ふ頭と名古屋港を移動しようとすると、一度名古屋駅まで戻らないといけない。そんなバカなと思う。船はお手軽さとはほど遠いし、バス路線は他県から来た人には分からない。 潮見のブルーボネット(web)方面までぐるっと一周する路線があるとぐっと利便性が上がる。地下鉄や地上線は難しいとして、高架のモノレールはどうなんだろう。
竜神社は地図上では竜神社となっており、拝殿の額には龍神社とある。近くの本宮町に龍神社(地図)があるから、そちらと区別するためかもしれない。 竜と龍は同じといえば同じなのだけど違うといえば違う。受ける印象もけっこう違うように思う。 現在は竜が常用漢字で、龍は常用外漢字とされている。龍が旧字体で、竜が新字体というのは間違っていない。 ただ、歴史的に見ると竜の文字の方が古く、龍の字は後から用いられるようになった。それがまた龍から竜に戻す格好になって話がややこしくなった。 人名で使う場合は龍の方が好まれるようで、竜よりも龍の方が多い。
竜神社については調べても情報が得られず、詳細不明としか言いようがない。 神明系の鳥居や神明造の社、内削ぎ千木に鰹木五本といっても祭神を知るための手がかりにはならない。 本宮町の龍神社と関係があるのかないのかも分からない。 今昔マップの明治中期(1888-1898年)を見ると、完全に田んぼのど真ん中で古くからこの場所に神社があったとは考えにくい。 戦後の1947年(昭和22年)に突如、宿舎のような住宅のような建物群が現れる。すぐ北に工場があるので、この工場の社宅だろうか。戦時中にあったという三菱の軍需工場と関係があるのかどうか。 現在その場所には中部鋼鈑(ちゅうぶこうはん/web)の工場群が建っている。名古屋市に本社を置く電気炉メーカーで、主に厚鋼板の製造を行っている。 中部鋼鈑が設立されたのが昭和25年(1950年)で、熱田から中川区に工場を移転させたのは昭和33年(1958年)だ。なので、昭和22年の地図にある工場は中部鋼鈑ではない。 気になるのは、明治から戦後にかけて、今は中部鋼鈑の敷地になっている東端にずっと鳥居マークが描かれていることだ。中部鋼鈑の工場が拡張された後の地図(1968-1973年)からは鳥居マークが消えている。 もしかするとこれが竜神社だろうか。
歴史的なことについてはほぼ分からないのだけど、神社そのものは雰囲気があってなかなかいい。ここは何かいるなと思わせる空気を持っている。
作成日 2018.7.4(最終更新日 2019.7.20)
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