神明社(中山町)

古墳の上に上人たちが祀った神

中山神明社

読み方 しんめい-しゃ(なかやま-ちょう)
所在地 名古屋市瑞穂区中山町2丁目5 地図
創建年 1667年(江戸時代前期)
旧社格・等級等 無格社・十三等級
祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
日本武命(やまとたけるのみこと)
仁徳天皇(にんとくてんのう)
アクセス 地下鉄桜通線「桜山駅」から徒歩約9分
駐車場 なし
その他 例祭 10月15日
オススメ度

 瑞穂区の北西、桜山駅から少し西へ行った中山にある神明社。
 瑞穂区は八幡社が多く、神明社は少ない。神社本庁に登録している神明社は、この中山の神明社だけで、他には濱神明社があるだけだ。
 この神明社、普通の神明社とは成り立ちが少し違っている。古墳の上に僧侶がアマテラスを祀ったのが始まりというのだ。そんなことがあるのだろうかと、最初はちょっと信じられなかった。

 江戸時代前期の寛文7年(1667年)、南寺町の養林寺の住職、専誉上人(せんよしょうにん)が高田村の古墳に祠を建ててアマテラスを祀ったのが始まりと社伝はいう。
 それは現在地の西150メートルほどで、今は名古屋市立大学の滝子(山の畑)キャンパス(地図)になっている。
 その前は第八高等学校があったことから、後に八高古墳(はちこうこふん)と名付けられた。
 八高古墳は全長約70メートルの前方後円墳で、名古屋市立大学建設の際に一部が壊され原形をとどめていない。
 本格的な調査は行われておらず、発見されたのも土師質円筒埴輪程度で、詳しいことは分かっていない。築造は5世紀半ばとされる。
 八高古墳の北80メートルほどのところにも円墳があり、そちらは現存している。
 少し南の高蔵高校(地図)がある場所にも全長87メートルの前方後円墳があったようなのだけど、それは完全に消滅した。
 八高古墳の祠に、元禄5年 (1692年)に呑良上人が熱田大神を勧請し、宝暦4年(1754年)に明誉上人が若宮八幡社を勧請して合祀したと伝わる。
 いずれも上人(しょうにん)と称される高僧が古墳の上に神を祀ったというのだから、この八高古墳はよほど特別なものと考えられていたのだろう。興味深くはあるけど、その理由までは分からない。
 国立第八高等学校と県立第五中学校の開校は明治40年(1907年)で、古墳上の祠はそのとき現在地に移された。
 神社としての体裁が整えられたのは大正12年(1923年)のことだ。
 そのあたりの変遷については今昔マップの明治から大正にかけての地図を見比べると分かる。
 ちなみに、愛知県犬山市の明治村(web)の正門(web)になっているのが、第八高等学校の正門だったものだ。

 高田村の村名の由来について津田正生は『尾張国地名考』の中で、【瀧川弘美曰】として、かつて村に如来寺という高田宗の寺があったことから来ているとしている。近くにある本願寺村に対するものだとも書く。
 現在の町名の中山は、江戸時代に高田村の支村として中山と呼ばれていたことから来ている。中山は田んぼの中に山があったからということなので、それは八高古墳のことだろう。

『尾張志』(1844年)の高田村の項を見ると、「八剱ノ社 熱田ノ社 一之御前ノ社 八幡社 富士ノ社 八幡ノ社 いずれも高田村にあり」とある。
 更に「この六社は永禄七甲子年当村城主村瀬浄心勧請せし由元禄七年甲戌五月の棟札にあり」とする。
 この中に神明社やそれに類する神社は出てこない。
「当村城主村瀬浄心」というのは、平安時代末に高田四郎重家が築城した高田城の城主とされる人物だ。
 高田城はかつての高田村字城ノ内、今は御剱小学校(地図)になっている場所にあったと伝わっている。
 高田村の神社6社すべてを村瀬浄心が勧請して建てたというのはちょっと信じられないのだけど、「元禄七年甲戌五月の棟札にあり」というのだから実際のことなんだろうか(元禄七年は1694年)。
 近くの御劔町八剱社地図)に関しては、永禄七年(1564年)に村瀬浄心が創建したという記録があるので、それは間違いなさそうだ。
 村瀬浄心は代々引き継ぐ名前で、村瀬浄心家がそれぞれの神社を建てたという可能性もあるのか。

『尾張徇行記』(1822年)ではこうなっている。
「社七ヶ所 白山 大明神 八剱宮 一ノ御神 富士 八幡二社」
『尾張志』にある熱田社の代わりに白山と大明神が載っている。もしかすると、『尾張志』の熱田社と『尾張徇行記』の大明神が今の神明社のことかもしれない。
『寛文村々覚書』(1670年頃)にはこうある。
「社 七ヶ所 白山 大明神 八剱宮 一之御神 富士 八幡弐社 当村祢宜 久大夫持分 前々除」
 まったく同じことから、150年間顔ぶれが変わらなかったのか、『尾張徇行記』が『寛文村々覚書』を写したのかだ。
 更に別の項に、「神明壱社 右寺領地之内」とあるのだけど、神明社の祠を建てたとされるのが1667年で、『寛文村々覚書』は1655年から1658年にかけての調査を元に編さんされ1670年頃に完成しているから、後から追加事項としたということだろうか。
 右寺(右に記した寺)というのは、養林寺末寺の信正庵のことか、養林寺のことか、ちょっと分かりづらい。信正寺(地図)は神明社の南に現存している。
 養林寺は現在、昭和区に移っている。

 明治、大正以降の神明社の動きとしては、昭和12年(1937年)に境内を拡張、昭和14年(1939年)に秋葉社と天王社を合祀、昭和59年(1984年)に御神木を龍神として祀り、昭和62年(1987年)に太宰府から天満宮を勧請して合祀している。
 そんな寄り合い所帯ということもあって、神明社らしくないような賑やかな感じになっている。龍神社があったり、鳥居前に飛梅が植えられたりしていた理由も納得がいった。
 神社もいろいろ、神明社もいろいろと、あらためて思うのだった。

 

作成日 2017.9.9(最終更新日 2019.3.24)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

古墳の祠から神明社になった中山神明社

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