中村区の西南端近く、中川区との境を流れる庄内川の左岸にある。 境内の由緒書きに、昭和46年の区画整理によって現在の状況になったとあるから、それまでは違う様子だったかもしれない。 今昔マップを見ると、明治中頃(1888-1898年)にはすでに現在地に鳥居マークが描かれているから、場所は動いていないようだ。昔から横井集落の中心にあっただろう。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「創建は明かではないが、当地は昔郷名を御厨郷と称し『神鳳抄』に一楊(ひとつやなぎ)ノ御厨とあり、伊勢の神宮の御領地で、高野宮神明社と称した。文明17年(1485年)下一色の城主前田与十郎が社殿を修造する。『尾張志』に伊勢外宮の別宮の高ノ宮を縁故により祀りしものなりと、記す。明治5年村社に列格する。五穀豊穣の守護神として崇敬厚し」
境内の由緒書きは少し違っている。 「創建は明かではない。文明17年(1485年)に城中安穏息災を願って、高野宮社を下之一色城主 前田与十郎種利(前田利家公の祖父の兄)が祈願所として米四十俵を毎年奉納した記録がある」 この記述にはいくつか問題点がある。 通説では下之一色城を建てたのは前田種利で、それは天正年間(1573年-1592年)とされている。1485年といえば、天正年間より100年も前だ。 それに、前田種利は前田利家の祖父の兄などではない。そもそも年代が合わない。 前田利家の生まれは1536年で、幅を持たせたとしても祖父との年齢差は50歳程度、その兄としても60歳差。10歳くらいで城主になる例もあるとはいえ、その年で神社を祈願所とはしないだろう。 尾張前田家の出身地は尾張国海東郡前田村または美濃安八郡前田村とされ、荒子を本拠とした前田利家の家系との関係はよく分かっていない。同族とされることもあるようだけど、種利の息子の長種が前田利家の長女と結婚していることを考えると、血筋的にはそれほど近くないのかもしれない。利家から見た種利は娘の婿の父ということになる。 尾張前田家の当主は代々与十郎を名乗ったため、単に与十郎というと誰のことを言っているのか分からないというのがある。 記録に出てくる古い与十郎としては、1485年(文明17年)の前田与十郎利治、下之一色村城主というのがある。戦国時代に建てられた下之一色城の前に館城のようなものがあったということか。 由緒書きにある1485年云々というのは、このことと勘違いした可能性が高い。 利治の子が仲利、仲利の子が種利ということになる。 前田家の誰が高野宮社を修造したり米を奉納したかは大きな問題ではないのでこれくらいにしておく。記録にあるということは下之一色城主だった前田家の誰かがそれをしたということは確かなのだろう。前田利家というビッグネームを借りようとして話が混乱してしまったようだ。 下之一色城は高野宮社から見て庄内川を挟んだ南3キロほどの中川区下之一色町字中ノ切にあったとされる。小牧長久手の戦いのとき、織田信雄・徳川家康軍に攻められて廃城となった(最初は織田方についていたのに途中で秀吉方に寝返った)。 江戸時代に新川が掘られたことで遺構は何も残っていない。石碑だけが正色小学校の片隅に建っている(地図)。
前田家どうこうというよりも、問題は『愛知縣神社名鑑』にある「当地は昔郷名を御厨郷と称し『神鳳抄』に一楊(ひとつやなぎ)ノ御厨とあり、伊勢の神宮の御領地」で、「『尾張志』に伊勢外宮の別宮の高ノ宮を縁故により祀りしものなりと、記す」という部分だ。 かつてこのあたりは一楊荘と呼ばれる伊勢の神宮(web)の荘園だった。北は中村、稲葉地あたりから南は下之一色、荒子までという広大なものだったと伝わっている。 御厨(みくり/みくりや)というのは神社に納めるお供え物(神饌)を調達する場所という意味だ。 その場所に建てられた神社ということで、伊勢の外宮にゆかりのある高宮社として創建されたということのようだ。 伊勢の外宮にある別宮「たかのみや」は、現在、多賀宮(web)という表記になっているけど、もともとは高ノ宮だった。 中村の高野宮社も、本来は高宮だったのを「たかのみや」と称していたから「ノ」に「野」という字を当てるようになったのだろうと『尾張志』は書いている。 伊勢の外宮の多賀宮の表記は明治以降のことだ。
祭神についてはどう理解すればいいのか、ちょっと分からない。 高野宮社では高皇産霊神(タカミムスビ)を祀るとしている。これは江戸時代からすでにそうだったようだ。『張州府志』にもそうあるから、少なくとも1752年にはそうだったことになる。 しかし、この神社が伊勢の高ノ宮とつながりのある神社であれば、伊勢の外宮と同じ神を祀るのが自然だ。伊勢の高ノ宮(多賀宮)では豊受大御神(トヨウケオオミカミ)の荒御魂を祀っている。 どうしてトヨウケオオカミではなくタカミムスビを祀っているのか不思議だと『尾張志』の作者もいっている。 いつどこで祭神がタカミムスビになってしまったのか。タカミムスビといえば物部系の神社で祀られることが多いから、どこかの時点で支配者が神宮系から物部系に代わったのかもしれない。 創建時期については何も情報がないので推測するしかないのだけど、荘園の成立が平安時代末なので、早ければその頃と考えられる。あるいは、横井の集落ができたときか。 『中村区の歴史』は、中世ここは国衙領の越智村があったところで、南部弥六という人物が開拓してできたのが横井村という説があることを紹介している。 ついでに書いておくと、かつて境内にあった阿弥陀堂は1830年に下之一色村に移されたといい、そのとき前田与十郎の墓も一緒に持っていったようだ。 阿弥陀堂はその後、岐阜県の高須村に売却されたという。
『寛文村々覚書』(1670年頃)の横井村の項を見るとこうなっている。 「高野大神宮壱社 当村祢宜 甚大夫持分 社内壱反三畝歩 外ニ 畑壱反三畝歩 燈明田 弐畝拾歩 社人屋敷 前々除」 「田五畝歩 伊勢田 前々除」 『尾張徇行記』(1822年)も同じような内容になっている。 大神宮を名乗れるということは普通のことではなく特別なことで、相当由緒のある神社と考えられていたのは間違いない。 境内も広く、境外にも広い畑や燈明田を持っていたことが分かる。更に「伊勢田」もあったようだ。伊勢の神宮領か、もしくは神宮に納める稲を作る田んぼだったか。 『尾張志』(1844年)は「近村に勝れたる神社なり」と書いている。 いずれにしても、神宮の内宮ではなく外宮に関係した神社だったと考えていい。
個人的な感想をいうと、この神社は好きだ。とても雰囲気がある。高尚感が漂っているとでもいったらいいだろうか。 両側には民家が建っていて、囲いも中途半端で吹き抜け感が強く、境内の環境としては決していいとはいえないのだけど、それでもこの神社が持つ独特な空気感は普通のものではないと感じた。 歴史の奥深さが醸し出すものなのか、神階の高さがそう感じさせるのか。 いろいろな神社に行っている人に、どこかいい神社ない? と訊かれたら、穴場の神社としてここをすすめたい。まだ行ったことがないなら、一度行ってみて、と。
作成日 2017.5.26(最終更新日 2019.4.21)
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