天白公園内の北東の小高い丘の上にある小さな社。 公園は親子連れなどで賑わっているものの、雑木林の道を抜けてわざわざここまでやってくる人は少ない。公園利用者でも、そんな神社があることすら知らない人も多いんじゃないだろうか。 天白公園は平成2年(1990年)に開園された比較的新しい都市公園だ。計画自体は昭和33年(1958年)からあったようだけど、実際に整備されるまでにはずいぶん時間かかった。 今昔マップで明治以降の変遷を辿ると、このあたりの様子が見てとれる。 中央にある大根池(おおねいけ)は灌漑用の溜め池として江戸時代に掘られたものだろう。東にもふたつの溜め池があったようだけど、埋め立てられて姿を消した。 天白公園の南側は完全な丘陵地帯で、北を流れる天白川の両岸を田畑にしていたことが分かる。 現在の原2丁目に小さな集落があった。このあたりの田んぼは原新田と呼ばれており、原新田は平針村の支村だった。 大根池周辺が開発されて家が建ち始めたのは1960年代以降のことで、1970年代になると住宅地と呼ばれるほどになった。 それでも大根池を囲む雑木林は残され、それが天白公園につながっていった。
野原敏雄『古代尾張氏とヤマト政権』の中でこの神社のことが少し出てくる。 それによると、この土地は平針の針名神社(地図)の所有地で、そこにはいつからか小さな祠があり、天白公園が整備されるときに氏神社を作る話が持ち上がって祠を調べたところ中山神社と書かれた神符が出てきたため、恵那串原の中山神社のことだろうということになり、天白公園内に中山神社を建てたということのようだ。それが平成13年(2001年)というから中山神社としての創建年はこの年ということになるのだろうか。 もともとの祠をいつ誰が作ったのかまでは分からない。最初から中山神社だったかどうかも定かではない。
岐阜県恵那郡串原村(現・恵那市串原)にある中山神社(web)は古く、宣化天皇時代の539年に大和国吉野郡(奈良県)の金峯神社(きんぷじんじゃ/web)から勧請して建てられたと伝わっている。 金峯山明神が狛犬の背中に乗って中山までやってきたという伝説があり、ここでは山犬が神の使いとされる。 吉野の金峯神社は歴史と由緒のある神社で(式内社で名神大)、吉野山の地主神を祀るとされている。現在の祭神は金山彦神(かなやまひこのかみ)となっているものの、神仏習合時代は金精明神(こんしょうみょうじん)と呼ばれる神を祀る仏教色の強い神社だった。 串原の中山神社のもともとの祭神がどうだったのかは分からない。最初から広国押武金日命(安閑天皇)だったかどうか。 串原の中山神社が創建されたのは28代宣化天皇の時代というのが本当であれば、安閑天皇は宣化天皇の兄で27代天皇だから、安閑天皇崩御後間もなくということになる。 金峯山神社で祀るのは地主神で、そこから勧請したのであれば同じく金峯山の神ということだったのではないか。安閑天皇はのちに蔵王権現と同一視されて、明治の神仏分離令で蔵王権現を祀っていた神社が安閑天皇を祀るようになる。串原の中山神社ではいつ安閑天皇を祀るということになったのか。 金峯山にある金峯山寺(web)では蔵王権現が本尊とされている。 このあたりの事情や経緯についてもう少し紐解いていきたい。
まず、間違えてはいけないのは、蔵王権現の総本山は宮城県と山形県にある蔵王山(蔵王連峰)ではないということだ。 蔵王はもともと、刈田嶺(かったみね)や不忘山(わすれずのやま)と呼ばれる山岳信仰の山で、吉野から蔵王権現を勧請したことで蔵王山と呼ばれるようになった。 蔵王権現というと蔵王山を思い浮かべがちだけど、蔵王権現の本家は奈良県吉野の金峯山ということをまず頭に入れておく必要がある。そうしないと話がこんがらがってしまうから。 蔵王権現は、奈良時代の修験の開祖・役小角(えん の おづぬ)が金峯山で修行中に現れたという言い伝えがある。 釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩が合体したものとされ、インドに起源を持たない日本独自の仏とされる。 正式名称を金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)という(金剛蔵王菩薩とも)。 修験の本尊であり、あらゆる神仏を包括するような存在とされている。 その後の神仏習合の中で、神道では大己貴命、少彦名命、国常立尊、日本武尊 、金山毘古命などと同一視されるようになった。 安閑天皇を同一視するようになるのは江戸時代に入ってからだったようで、金峯山に現れた蔵王権現が、自ら自分は広国押武金日命だと名乗ったという話もある。 明治元年(1868年)の神仏分離令に続いて、明治5年(1872年)には修験禁止令が出された。これによって修験は壊滅的な打撃を受けることになる。 金峯山寺は蔵王権現を本尊として残ることができたものの、多くの寺院は打ち壊しに遭ったり仏像が破壊されたりした。やむなく仏教色を消して教派神道となったり、安閑天皇などを祀る神社となったところもあった。
安閑天皇は継体天皇の長子で、66歳で即位したものの、4年で崩御してしまった天皇とされる。 母は尾張草香(おわり の くさか)の娘・目子媛(めのこひめ)で、皇子がいなかったことで、天皇位を弟の宣化に譲ることになった。その宣化天皇も高齢の即位ということで3年ほどで崩御してしまう。跡を継いだのは異母弟で娘・石姫の夫の欽明天皇だった。 安閑天皇はどうして蔵王権現と同一視されるようになったのかは、よく分かっていない。和風諡号(わふうしごう)の広国押武金日天皇/広国押建金日命の「金日」と金剛蔵王権現の「金」つながりではないかという説もある。
いい機会なので諡号(しごう)について少し勉強してみる。 天皇の本名に当たるのが諱(いみな)で、もともとは忌み名(いみな)から来ている。 貴人を本名で呼ぶことは恐れ多くてはばかれるということで、名を忌む、それが転じて忌み名(諱)になったとされる。名は霊的な人格を表すと考えられていた時代、名を知られることは人格をも支配されることにつながるということでそれを避けた。諱を口にすることは大変失礼なことだった。 諱に対して普段口にしていいのは字(あざな)なのだけど、天皇の場合は氏も姓も字もない。天皇を使うようになったのは天武天皇時代からとされていて、その前は大王(おおきみ)だった。古代において、大王/天皇を実際どう呼んでいたのかは分からない(私が知らないという意味)。 我々が知っている天皇の名前は、死後につけられた諡(おくりな)だ。贈り名を意味するもので、漢風諡号(かんふうしごう)と和風諡号がある。 一般的に使われているのが漢風諡号で、何々天皇というのがそうだ。中山神社の祭神名の広国押武金日命が和風諡号に当たる。和風諡号は、その天皇の業績や人物像から付けられたため、どんなことをした天皇だったのかを知る手がかりになる。 安閑天皇の広国押武金日命の場合、国を武によって押し広げたといったところだろうか。金日が何を意味しているのかはちょと分からない。 和風諡号は『古事記』と『日本書紀』では少し違っている。広国押武金日命は『日本書紀』で、『古事記』では広国押建金日命になっている。武も建も同じような意味ではあるけれど。 ちなみに、安閑天皇の諱は勾(まがり)という。 和風諡号がよく知られている天皇としては、初代神武天皇の神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)や八幡神とされる応神天皇の誉田別尊(ほむだわけのみこと)などがある。応神天皇の場合、『古事記』では品陀和気命となっている。天皇ではないけれど、神功皇后の気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)もわりと知られている。 安閑天皇の弟の宣化天皇は、武小広国押盾天皇/建小広国押楯命となっていて、ちょっと控えめな感じだ。小さく広げた、もしくは盾となったみたいなニュアンスだろうか。 和風諡号が最初につけられたのは41代持統天皇のときからで、漢風諡号はその息子の42代文武天皇からとされる。 この諡号というのは奈良時代の762年頃、皇族で学者の淡海三船(大友皇子の曽孫)がまとめて付けたとされる。なので、実はけっこう適当かもしれない。当時の政治的な思惑も見え隠れする。そもそも、ひとりの人間が歴代天皇の死後の名前を勝手に付けていいとも思えない。 その後、和風諡号は一部の例外を除いて平安時代に終わった。生前の御所があった場所などを追号として呼ばれることになる。 明治以降は元号がそのまま追号として贈られることになった。 存命中はすべて今上天皇(きんじょうてんのう)と呼ぶことになっている。もし直接呼びかける機会があるとすれば、そのときは陛下と言う。
平針の原にいつ誰が祠を祀ったかはやはり分からないとしか言いようがない。中山神社の神符が祀られていたとしても、最初から中山神社だったとは限らない。 この祠が祀られたのが江戸時代だったとして、中山神社の神符を祀った人間はどういう神として認識していただろう。金精明神だったのか、蔵王権現だったのか、別の神だったのか。その当時は安閑天皇ではなかったはずだ。 現在、広国押武金日命(安閑天皇)を祀るとしているのは、恵那串原の中山神社にならってのことだろう。
神社は平成15年(2003年)に新しく建て直したということで、外観はまだきれいな状態だ。雑木林に囲まれていることもあって、静かで落ち着いた空気に包まれている。
作成日 2017.4.1(最終更新日 2019.2.3)
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