1640年(寛永17年)から1643年(寛永20年)にかけて鬼頭景義が開発した東福田新田のうち、春田野集落の氏神がこの神明社だ。西福田新田と隔てていた戸田川の左岸に位置する。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「尾張藩祖徳川義直の命により鬼頭景義、福田新田開発の際澪止の至難を寛永十七年(1640年)に神社を祀りその加護によって竣功後産土神となす。境内の地形は船の舵型に造り今も型跡を残す。明治5年5月、郷社に列格し、明治42年9月1日、指定社となる」
この説明だけでは少し分かりづらい。 『港区の歴史』などによると、鬼頭景義が新田を開発しているときに堤防が切れたり、海を行く船が方向を誤って難破したりといったことが続いたため、伊勢の神宮(web)より分霊して祀ったところ、事故もなくなり工事も上手くいったため、境内を船の舵型に造ったということらしい。 舵というのは船のハンドルのことで、丸い輪に放射状の握り棒がついたやつだ。 ただ、現在の境内の様子からはまったく舵型は感じられない。この神社も第二次大戦の空襲で社殿はすべて焼けて、昭和34年の伊勢湾台風でも被害に遭っているから、そのあたりで舵型を失ってしまっただろうか。そもそも舵型の境内というのは想像がつかないのだけど。 現在の社殿は平成元年(1989年)に再建したものとのことだ。
祭神が國常立命(クニノトコタチ)と天照皇大神になっている。境内の由緒碑では國常立命のみとなっているから、もともとクニノトコタチが主祭神だったのだろう。 同じ東福田新田の東蟹田集落の神明社の祭神もクニノトコタチとなっているから、そのあたりも関係がありそうだ。 鎌倉時代末から南北朝時代にかけて伊勢の神宮の外宮の神官だった度会行忠や家行らが唱えたのが伊勢神道(度会神道)で、江戸時代に出口延佳が発展させて後期伊勢神道と呼ばれるようになる。 出口延佳の生誕年が1615年で没年が1690年なので、1640年代というのはちょうど後期伊勢神道が盛り上がっていた時期に当たる。 外宮の祭神である豊受大神(トヨウケ)を天之御中主神と國常立命と同一視して宇宙の根源神と位置づけたのが伊勢神道だ。 伊勢の神宮から勧請してクニノトコタチを祀ったというのであれば、外宮から勧請したということだ。 それが福田新田の開発者だった鬼頭景義によるものだったかどうかは判断が難しい。 江戸時代前期の人にとって神宮の外宮というのがどういう存在で、トヨウケやクニノトコタチをどう思っていたのかも気になるところだ。 この神明社が外宮を意識していることは社殿の様式にも表れている。 一般的な神明社が内削ぎ千木と偶数本の鰹木を持つのに対して、ここの神明造は外削ぎ千木と五本の鰹木となっている。外削ぎ千木は男神の社とされるのだけど、伊勢の外宮も外削ぎになっている(鰹木は九本)。
春田野(はるたの)の地名は、新たに土地を切り開いたという意味の「墾(は)る」に春の字を当てたとされる。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、春田野集落は神社の北の三叉路の道沿いにあったことが分かる。 集落から見ると神社は南の外れの離れ小島のようなところにあった。樹林マークに囲まれているから鎮守の森のようになっていたのだろう。 戦前、戦中、戦後まで状況はあまり変わらない。集落があって、神社が外れにあって、周囲には田んぼが広がっている。 1970年代に入っても状況に大きな変化はない。相変わらず農家が少し集まっていて、あとは田んぼのままだ。 1980年代に入ると住宅が増えて田んぼは激減した。 1990年代になると東西に残っていた田んぼもほぼ姿を消し、西の田んぼ地帯に戸田川緑地ができた。 公園ができたのは平成元年(1989年)で、名古屋市農業文化園、とだがわこどもランド、デイキャンプ場、フラワーセンター、農業科学館、栽培展示温室、芝生広場、ファミリースポーツ広場、インラインスケート場、パターゴルフ場などがある大きなレジャー公園になっている。 平成30年の今もまだ工事中で未完成部分が残っている。
鬼頭景義が苦労して新田を開発してから378年。もうそんなに経ったかと思うか、まだそれくらいしか経っていないのかと思うか、鬼頭景義が今の福田新田を見たらどう感じるだろう。 町並みは大きく様変わりして、田んぼも少なくなったとはいえ、新旧の風景が混在している。少しは変わらない部分も残っている。神社もこうして今に残った。鬼頭景義たちの苦労は決して無駄ではなかった。
作成日 2018.8.14(最終更新日 2019.7.30)
|