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八幡社(大宝)


平野村から大宝町にお引っ越し



大宝八幡社

読み方はちまん-しゃ(たいほう)
所在地名古屋市熱田区大宝1丁目8-13 地図
創建年不明
旧社格・等級等村社・十四等級
祭神應神天皇(おうじんてんのう)
アクセス地下鉄名港線「日比野駅」から徒歩約6分
駐車場 なし
その他例祭 10月15日
オススメ度

 地下鉄日比野駅の東南にある八幡社。
 もともとは平野村にあった八幡で、昭和になって現在地に移された。ささしまライブ駅(地図)の南、南平野町だったところだ。



『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「創建は明かではない。古くより南平野町の氏神として鎮座、明治5年、村社に列格する。昭和7年1月14日、省線関西線敷地の拡張と貨物名古屋駅新設のため止むなく現在地の社地に遷座する。時に昭和7年9月16日なり」
 昭和7年(1932年)に、国鉄関西線の敷地を拡張するとともに貨物用の名古屋駅(笹島駅)を新設することになったため、旧地から現在地に移されたということだ。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、平野村の集落は現在のグローバルゲートやマーケットスクエアささしまあたりにあったことが分かる。
 八幡社は南の船溜まり近くにあったといい、更にさかのぼるともっと北の村の離れにあったともいう。
 今昔マップの1920年(大正9年)で、中京テレビ本社と愛知大名古屋キャンパスの間(地図)に描かれている鳥居マークが八幡社だと思う。
 平野村の痕跡はまったく残っていないだろうけど、南平野町という町名は道路や鉄道用地としてわずかに残っている。



『寛文村々覚書』(1670年頃)の平野村の項にはこうある(『尾張徇行記』(1822年)もほぼ同じ内容)。
「八幡壱社 備前検除
 熱田 大原織大夫引得」
 尾張で備前検地が行われたのが江戸時代初期の1608年で、そのとき除地(よけち/じょち/税などを免除された土地)になったとあるから、創建は戦国時代あたりだっただろうか(備前検地が行われたときにすでに除地になっていたところは前々除という)。
『尾張志』(1844年)にも「八幡ノ社 平野村にあり」とある。



 平野村は『寛文村々覚書』に22戸120人馬1匹とあり、『尾張徇行記』に27戸125人馬1匹とあるから、江戸時代を通じて規模は変わらなかったようだ。
 明治22年(1889年)に笈瀬村(おいせむら)と合併し、大字平野となる。
 明治28年(1895)、私鉄の関西鉄道が平野に愛知駅を建てた。名古屋側のターミナル駅で、モダンで立派な駅だったという(wiki)。
 関西鉄道は明治40年(1907年)に国有となり、関西線が名古屋駅に乗り入れることとなって愛知駅は明治42年(1909年)に廃止となった。
 昭和5年(1930年)に中川運河が完成すると、貨物輸送の需要が増え、名古屋駅だけでは間に合わなくなったため、貨物専用の笹島駅が造られることになる。
 設備が完成したのが昭和5年、正式な開業は昭和12年(1937年)だった。
 平野の八幡社が移された昭和7年というのは、このときの工事に伴うものだったのだろう。
 それから月日が流れ、笹島周辺も大きく様変わりした。
 笹島駅は昭和61年(1986年)に廃止となり、跡地はささしまライブとして再開発が現在進行中で行われているところだ。
 2027年のリニア名古屋駅開業に向けて、このあたりもまだまだ変わっていくことになりそうだ。



 大宝町は昭和27年(1952年)に野立町と熱田西町の各一部より成立した(大宝1丁目の成立は昭和51年)。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、大宝あたりは田んぼしかなかったことが分かる。熱田神領の田んぼだったところだ。
 大正時代になって鉄道が通ったものの、まだ田んぼだけが広がっている。
 このあたりに家が建つのは昭和に入ってからで、1932年(昭和7年)の地図では鳥居マークが描かれている。
 どういう経緯で平野村の八幡社が大宝町に譲られることになったのかは分からない。大宝町の成立と平野村の立ち退きのタイミングがちょうど合ったということだったのか、もしかしたら平野村の住人が大宝に移り住んだということもあったかもしれない。



 都市の大開発の前では、小さな神社ひとつなど吹けば飛ぶような存在かもしれない。しかし、数百年生き残った歴史というのは考える以上に重い。
 場所は移されても、平野村だった時代の記憶を神社はとどめている。
 人々の願いの形は変わっているようで本質的には昔も今も変わらない。




作成日 2017.9.29(最終更新日 2019.9.10)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

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