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神明社(山王)

祭神の不思議と謎の斎宮司

露橋神明社

読み方 しんめい-しゃ(さんのう)
所在地 名古屋市中川区山王3丁目12-4 地図
創建年 1598年(安土桃山時代末)
旧社格・等級等 村社・十三等級
祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
アクセス 名鉄名古屋本線「山王駅」から徒歩約3分
駐車場 なし
webサイト 公式サイト
その他 例祭 10月第1日曜日
オススメ度

『愛知縣神社名鑑』は創建年を不明とし、神社の縁起は安土桃山時代末の慶長3年(1598年)としている。
 神社の由緒書きにはこうある。
「本社の祭神は天照大神なり。はじめ里人氏神を奉祀せんと相謀り、慶長三年八月、熱田神宮祢宜大原九大夫に依頼、旧小栗御道畔の田園の中に浄地をトし勧請せり。爾来幾星霜、村民は尊崇し春秋二季に祈年祭、五穀豊穣天下泰平を祈願し、神楽、笛太皷を鳴らし、獅子舞等を奉納して今日に至る」
「旧小栗御道」は小栗街道とも呼ばれた鎌倉街道のことで、現在の山王通がそれに当たる。
 東に800メートルほど行った古渡町交差点がかつての鎌倉街道と美濃路の交差点だった(地図)。その交差点付近に古渡稲荷神社地図)があり、山王の地名は古渡稲荷の中にあった山王社が由来となっている。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、神社は露橋村の東のはずれで、田んぼの中の小栗街道沿いにあったことが分かる。
 昭和に入るとこのあたりも宅地化され、神社は住宅地の中に飲み込まれる恰好になった。

 それにしても、熱田神宮web)の祢宜にアマテラスを祀る神明社を建てるのにいい場所を占ってもらうなんてことがあったのだろうか。どうして熱田社じゃなくて神明社だったのか。
 1598年といえば、秀吉が死去した年だ。秀吉が死んだのは旧暦8月18日で、神社の場所を決める占いをしたのも同年8月ということはどちらが先だったのだろう。
 秀吉死去のニュースはたちまち全国に伝わったはずだ。そんな時期に神社を建てようなんて話になっただろうか。
 国内での大きな戦は1590年の小田原征伐で終わっている。1598年は朝鮮出兵(慶長の役)の最中だった。それは秀吉の死によって終結することになる。
 これら一連の出来事は、尾張の農民たちにとってどれほどの重さで受け止められていたのだろう。そのあたりの感覚を想像するのは難しい。
 神社側の詳しい縁起がありながら『愛知縣神社名鑑』がそれを採用していないのは何故なのか。
 創建のいきさつ以外にもこの神社はなんとなく読み切れないものがあって、どういうことなんだろうと思う。

 社蔵する棟札に、神三神として久久能知神・鳥之石楠船神・豊受大神を祀る、とあるという。
 これはすごく不思議なことだ。そもそもはアマテラスではなくトヨウケ(豊受大神)だったのか? だとしたら内宮ではなく外宮からの勧請ということになる。
 もしくは、これは境内社となっている西宮社の祭神ということだろうか。
『寛文村々覚書』(1670年頃)の露橋村の項には「社弐ヶ所 内 神明 斎宮司 熱田 磯大夫持分 社内八畝廿三歩 前々除」とあり、『尾張志』(1844年)には「神明社 ザグジノ社 二社共に 露橋村に有り」とあることから、もともとは露橋村に独立した斎宮司(ザグジノ社)があったことが分かる。今の境内社の西宮社が斎宮司に当たるのだろう。
 しかし、西宮社は独立していて、本社に合祀したという情報はない。『愛知縣神社名鑑』も公式サイトも神明社の祭神はアマテラスとなっている。
 棟札の三神が何を示しているのかも謎として残る。それはいつの時代の棟札なのか。

 それにしても、久久能知神や鳥之石楠船神を祀る神社というのは珍しい。おそらく名古屋ではここだけだろう。
 ククノチ(クグノチ)は、イザナギとイザナミの間に生まれた神で、『古事記』では久久能智神、『日本書紀』では句句廼馳と表記される。
 山の神であるオオヤマツミ(大山津見神)と野の神であるカヤノヒメ(神鹿屋野比売神)に先立って生まれたとする。
 クク(久久/句句)は木のことで木の神と考えられている。
 兵庫県西宮市の公智神社(web)やコウノトリの神社として知られる兵庫県豊岡市の久久比神社(web)など、ごく限られたところで祀られる神だ。
 鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)もイザナギ、イザナミの間に生まれた神で、別名を天鳥船神(あめのとりふねのかみ)、天鳥船(あめのとりふね)とも呼ばれ、神が乗る船を神格化したものとされる。
 それとは別に、ヒルコ(蛭子)を乗せて流したのが鳥磐櫲樟船(とりのいわくすふね)だったとする。
 ヒルコはイザナギ、イザナミが最初に生んだ子ながら、ちゃんと育たず不具だっため、鳥磐櫲樟船に乗せて流したと『日本書紀』は書く。
 ヒルコは摂津国(大阪から兵庫県にかけて)に流れ着き、夷三郎(えびすさぶろう)として育ち、神として祀られるようになったというのが西宮神社(兵庫県西宮市/web)の縁起となっている。
 西宮神社はもともと廣田神社(web)の境外摂社、浜南宮で、それが発展して明治になって西宮神社として独立した。
 露橋村の斎宮司がいつ誰によって建てられたかは情報がないので分からない。民間信仰のミシャクジ神信仰から来ているのかもしれないけど、久久能知神や鳥之石楠船神を祀るというのは普通の社宮司(斎宮司)ではないように思える。

 西宮社(斎宮司)は、昭和8年(1933年)、鉄道の敷設に伴って西宮町から神明社に移された。
 この神社はイボの神様として信仰されていて、祈願者はシャモジを奉納するという習わしが今も続いている。このことからしても、ミシャクジ信仰と無関係ではない。
 ただ、祭神は大国主命(オオクニヌシ)の后である須勢理比売(スセリビメ)という話があるので、ここにも何か秘められた歴史がありそうだ。
 そうではなく祭神は夷三郎という説もあり、ますます混乱が深まる。
 露橋の神明社の西北800メートルの月島町には金刀比羅社地図)があり、その境内社として西宮神社がある。そこも同じくイボの神様でシャモジが奉納されている。

 理解するのが難しい神社で、未整理な部分が残った。調査続行ということにしたい。

 

作成日 2017.6.28(最終更新日 2019.5.19)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

西宮の影がちらつく露橋神明社

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