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神明社(戸部下)

変わる風景と変わらない場所

戸部下神明社

読み方 しんめい-しゃ(とべした)
所在地 名古屋市南区戸部下1丁目3-41 地図
創建年 1728年(江戸時代中期)
旧社格・等級等 村社・十五等級
祭神 天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)
アクセス 名鉄常滑線「道徳駅」から徒歩約20分
駐車場 なし
その他 例祭 10月10日
オススメ度

 江戸時代に開発された戸部下新田の氏神として創建された神社。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「創建は明かではない。戸部下新田開拓後、村内の安全と五穀豊穣を祈り奉斎したものと思考する。明治12年、村社に列格した」
『南区神社名鑑』や境内の郷土碑はもう少し詳しい。
 それによると、戸部下新田は1698年(元禄11年)に井戸田村の牛右衛門、戸部村の治左衞門、山崎村の理兵衛、熱田の松左衛門の4人が自費で開発を始めたものの、高潮などによって度々被害を受けたことで途中で断念し、名古屋赤塚の商人、大野屋嘉兵衛が買い取って1728年(享保13年)に完成させたという。
 その後、納屋町の庄蔵の所有となった。
 初めは祐竹新田(ゆうちくしんでん)と称しており、1742年(寛保2年)の検地の後、戸部下新田と改められた。
 山崎川に架かる祐竹橋の名は祐竹新田と呼ばれていた頃の名残だ。

 神社は祐竹新田が完成した1728年に産土神として伊勢大神、熱田大神、戸部天王を勧請して祀り、三所社と呼んでいた。
『尾張志』(1844年)にも、「三所ノ社 伊勢大神熱田大神戸部天王を祀る」とある。
 同じ戸部下新田にありと書かれている秋葉社は、山崎川のほとりにあったもので、昭和24年(1949年)に山崎川を拡張するとき戸部下の神明社に移された。
 境内社の津島社(津島天王)は、1850年(嘉永3年)に村で疫病が流行したときに祀ったものだ。
 神明社と称すようになったのは明治の神仏分離令以降のことだろう。

 戸部天王というのは、南区呼続にある富部神社(とべじんじゃ)から勧請した神だ。
 富部神社は戸部天王、蛇毒神天王とも呼ばれていたことから、蛇毒気神(ダドクケノカミ)を祀っていたと考えられる。
 蛇毒気神は八岐大蛇(ヤマタノオロチ)が変化したものとも、牛頭天王の八王子の末子とも、牛頭天王の眷属(けんぞく)ともいわれる神で、古くから祇園社(八坂神社 web)でも祀られていた。
 蛇毒気神という名前からしても恐ろしげで、実際良くも悪くも強力な神と考えられていたようだ。毒をもって毒を制すという考えから味方に付けると心強いという発想だったのだろう。
 伊勢の神と熱田の神と蛇毒気神が同じ社に同居しているところを想像すると、大丈夫かなとちょっと心配になる。

 もともと神明社ではなかったことを示すように、本社は板宮造になっている。一応、内削ぎの千木と五本の鰹木が載ってはいるものの神明造とは呼びがたい。かなり傷んでいるから年数が経っているのだろうけど、戦前ということはないだろう。

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、今と同じ場所に鳥居マークがある。すぐ西を国鉄の東海道本線が通っている。故意か偶然か、線路は神社を避けた格好になっている。
 東海道本線は1872年(明治5年)に新橋駅 – 横浜駅が開業したのを皮切りに、最終的には新橋駅 – 神戸駅が1889年(明治22年)に完成した。
 愛知県内でいうと1886年(明治19年)に武豊駅 – 熱田駅が開業し、1887年(明治20年)に熱田駅 – 大垣駅が開通している。
 今昔マップを明治から昭和まで年代順に見ていくと、神社の位置はほとんど変わっていない。表記上少し動いているように見えるけど、基本的には移っていないと考えてよさそうだ。
 神社が動いていないということは、それだけ歴史の空気を積み重ねているということだ。周囲の風景がどれだけ変わっても神社の内はさほど変わっていないのではないか。
 290年も経てば伊勢大神と熱田大神と戸部天王はすっかり仲良く同居しているのだろう。ずいぶん我が家もおんぼろになったけど、今年も桜が咲いたねぇなどと言いながら。

 

作成日 2018.4.10(最終更新日 2019.8.26)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

戸部下新田の三所社は今は戸部下神明社

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