中村日赤病院の東、かつて中村廓と呼ばれた場所の一角に、この神社が移されたのは昭和8年(1933年)のことだった。 江戸時代中期、名古屋城下の東に牛頭天王を祀る天王社が多く建てられた。現在の東区古出来から千種区にかけてのあたりで、今でも須佐之男神社が4社ほど残っている。 中村区日吉町にある素盞男神社もその中のひとつで、江戸時代中期の1773年に古井村(千種区内山町)に建てられたものだ。 『愛知縣神社名鑑』にはこうある。 「社伝に、明和四年(1767年)7月、庄内川氾濫により悪疫の流行をまねき同七年七月には城下大火災と打続く災害克服のため藩主宗睦天王社、秋葉社を城下町内に祀ることを奨励した。当社は安永二年(1773年)に勧請する」 宗睦は尾張藩9代藩主で、中興の名君と呼ばれた殿様ではあったのだけど、後年の経済政策の失敗により尾張藩の財政を傾けることになったといわれる。 その前の前の7代藩主が宗春だから、それでもよく立て直した方という言い方もできるだろうか。 『尾張徇行記』(1822年)や『尾張志』(1844年)にはこの神社は載っていないので、江戸時代は神社という規模ではなく祠程度だっただろうか。
中村遊廓の歴史は、大須観音(web)北の北野新地に始まる。 江戸時代の名古屋城(web)下には家康が認可した飛田屋町廓(1610-1612年頃)や、宗春が設置した西小路遊廓、富士見原遊廓、葛町遊廓(1731-1732年)があったものの、すぐに廃止され、それ以外は私娼があるだけだった。 幕末の1858年、玉屋町(中区錦)で宿屋を営む笹野屋庄兵衛が願い出て、役者や芸人の宿が大須観音北に置かれることになった。やがてそこに私娼も集まってくるようになり、北野新地と呼ばれた。現在の北野神社(大須)(地図)があるあたりだ。 明治7年(1874年)、北野新地は公娼として認められる。 しかし、敷地が狭く拡張できないため、明治8年(1875年)に西大須などに分散して移されることになり、旭廊と呼ばれた。旭廊の名称は北野新地があった日之出町にちなんでいる。 明治の終わり頃全盛を迎え、173軒の娼家が建ち並び、娼妓は1600人以上いたと伝わる。 その後、明治末から大正初期にかけて稲永新田に移されることが決まったものの、疑獄事件に発展し、その話は立ち消えになった。 中村に旭楼が移されたのは、大正12年(1923年)のことだった。あまりにも発展して手狭になったのと、都市開発によるもので、風紀の乱れというのも要因だったようだ。 その頃の中村は名古屋のはずれで、田んぼや畑くらいしかなかったという。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見るとその頃の様子が見てとれる。大正9年(1920年)の地図では中村遊廓の敷地を確保していたようで、ちょうどその範囲が空白地のようになっている。 現在の町名でいうと、日吉町、寿町、大門町、羽衣町、賑町一帯が相当する。 そのとき土地を整備するために土を取った場所が池になり弁天池(遊里ヶ池)と呼ばれた。この池を埋めてて建てたのが現在の中村日赤病院だ。 大正から昭和の戦前まで中村遊廓は賑わいを見せ続けた。昭和3年と8年には花魁道中も行われた。 千種区内山から素盞男神社がこの地に移されたのは、そういう時期のことだ(昭和8年)。場所は中村遊廓の北西角に当たる。 どういういきさつでそういうことになったのかは分からない。 第二次大戦中は営業停止となり、三菱や大同の寄宿舎として使われ、昭和20年の空襲により中村遊廓も大きな被害を受けた。 終戦後、一時は進駐軍の軍人で賑わったものの、やがてその賑わいも終わり、昭和21年(1946年)の公娼制度廃止で町は火が消えたようになってしまったという。 それでも大門一帯には映画館やパチンコ店、商店などが並び、遊廓時代とは形を変えた歓楽街となっていった。名称は中村遊廓から名楽園となり、遊廓はカフェーと名前を変えるも、やっていることはほぼ変わらず、赤線地帯と呼ばれるようになる。 その後、昭和31年(1956年)の売春防止法を受け、大門の町も変わらざるを得なくなっていった。 現在は住宅地となってかつての面影はわずかに残るのみとなっている。 大門うろうろ散策で心残りあり(ブログ記事)
ここ素盞男神社は、酉の市が行われることで知られている。名古屋では酉の市が少ないので、商売人などで大いに賑わうようだ。 これは戦後、町に元気がなくなったことでどうにかしないといけないということで神社や商店街などが考えついたものだった。始まったのは昭和24年のことだ。 酉の市というと大阪堺の大鳥大社(web)や、東京都浅草の鷲神社(web)、足立区の大鷲神社(web)などがよく知られている。 いずれもヤマトタケルにまつわる神社だ。東征のとき、熊手を立てかけて戦勝祈願をしたという伝承を起源としている。 一方、お寺でも酉の市は行われている。東京浅草の長國寺(web)などがそうだ。名古屋では大須の七寺(web)が知られる。 長國寺では鷲妙見大菩薩の開帳日に立った市を酉の市の起源とする。 ここ素盞男神社では、大鳥大社から勧請して境内社として祀っている。
歌川広重の浮世絵『名所江戸百景』の中に「浅草田甫酉の町詣」(web)(国立国会図書館/web)と題した一枚がある。二階の窓格子越しに白い猫が外を眺めている絵といえば思い出す人もいると思う。あれは吉原の妓楼の部屋から鷲神社へ参る人々を猫が眺めているところを描いたものだ。暗い夜の田んぼのあぜ道を熊手を担いだ大勢の人々が列を成して歩いている。部屋に遊女の姿はない。 華やかだった戦前から戦中、戦後の中村遊廓を見続けた素盞男神社に、いったいどれほどの女たちが参り、何を願っただろう。 商売繁盛の願いと、遊女たちの祈りと、それらすべてを受け止めなければならなかったスサノオは何を思ったか。 かつての妓楼の名が刻まれた奉納物が今も多く残るという。
作成日 2017.5.29(最終更新日 2019.4.23)
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