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八幡社(町屋川)


出世した双子の弟八幡



町屋川八幡社

読み方はちまん-しゃ(まちやがわ)
所在地名古屋市緑区大高町字町屋川14 地図
創建年1500年代初め(戦国時代前期)
旧社格・等級等村社・十二等級
祭神應神天皇(おうじんてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
玉依姫命(たまよりひめのみこと)
アクセスJR東海道本線「大高駅」から徒歩約6分
駐車場 なし
その他例祭 旧暦8月15日
オススメ度

 大高城の城主だった花井備中守が永正年間(1504-1521年)に鎌倉の鶴岡八幡宮(web)から勧請して城内と町屋川の二ヶ所に八幡社を建てたと伝わっている。
 江戸時代に入って大高城跡に尾張藩家老の志水家が屋敷を構えたこともあって、城山の八幡社は武士だけが参拝を許され、村人は町屋川の八幡社を参拝する習わしになっていたという。
 いわば双子八幡社ともいうべきふたつの八幡社は、今大きな差がついている。城山の八幡社は明治になって志水家が屋敷を引き払って以降寂れ、町屋川の八幡社は村社になり立派な社殿も建った。弟の方が出世して、兄が落ちぶれたといった風になっている。個人的には城山の八幡社を応援したい気持ちはあるのだけど。



『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「社伝に、治承四年(1180)十月、の勧請にして即ち、城山八幡社の離れ宮ともいう。『尾張志』に八幡ノ社大高村にあり、と記るす。町屋川の氏神として崇敬あつく、明治6年10月、据置公許となり、昭和16年5月、社殿を改築する。昭和17年3月2日、村社に列格した」



 1180年の勧請云々というのは鎌倉の鶴岡八幡宮のことで、この大高の八幡社のことではない。そのあたりは城山八幡社(大高)のページに書いた。
 明治6年の時点ではまだ村社に列格せず、昭和17年に村社になっている。これは時期としてはかなり遅い。戦時中ということでそのあたりの事情が何かあっただろうか。



『尾張志』(1844年)にはこうある。
「八幡ノ社 志水氏の屋敷内にあり 八幡ノ社 天王ノ社 此三社も大高村にあり」
 志水氏の屋敷にある八幡社が城山の八幡社のことで、もうひとつの八幡社がこの町屋川の八幡社のことだ。
 天王社は今津島社として続いている。



『尾張徇行記』(1822年)は西大高村の神社について次のように書いている。
「社九区覚書ニ社内四町八畝三歩前々除、朝苧大明神、八幡二社、天神、天王、山神、浅間、神明二社」
「神主原田日向書上ニ八幡社内二町二反三畝十八歩又八幡社内二反歩共ニ御除地、此二社ハ大高城主水野大膳時代マテ神興行幸鏑流馬アリ、因テ御公田燈明田祭礼料絃田等城主ヨリ寄附アリシカ、今ハ其地烏有トナリ僅カニ絃田ノ内五歩ホト御除地アリ」
 水野大膳時代というと、おそらく信秀(信長の父)の配下だった天文・弘治年間(1532-1558年)のことで、その頃までは八幡社で流鏑馬(やぶさめ)が行われていたようだ。



『緑区の歴史』(榊原邦彦)に少し気になることが書かれている。
『大高城の懐古』によると、原田家文書に八幡社は大高城主の花井備中守が建立し、九州からやって来た原田治郎種臣が建久八年(1197年)より神職をつとめてきたとあるという。
『大高城の懐古』は地元の郷土史家である原田敬三郎が1937年に発行した小冊子なのだけど、著者が原田さんなので神職をしていた原田さんの子孫ということになるのだろう。
 ただ、『緑区の歴史』でも指摘しているように、花井備中守は戦国時代の1500年代の人で、鎌倉時代初期に原田という人が九州からやってきて八幡社の神職についたという話は大きく矛盾する。そもそも、大高城の築城は早くても南北朝時代あたりだろうから、その点でも時代が合わない。
『愛知縣神社名鑑』の情報はかなり古い昭和のもので、現状とはそぐわないのだけど、宮司の名前が載っている。
 昭和のある時期、緑区は松岡和雄、山口泰直、久米長夫の3人の宮司が多くの神社を兼務していた時代があったことが分かる。
 八幡社でいうと城山は山口泰直宮司、町屋川は久米長夫宮司と、別の宮司が務めている。
 現在はどこの神社も代替わりしているはずなので、この情報は当てにならないのだけど、宮司の系列から神社の歴史を紐解くというアプローチ方法もひとつある。久米長夫氏は氷上姉子神社の古くからの宮司を務めていた久米(来目)家の末裔かもしれない。
 同じく『緑区の歴史』の中で、
『尾張国鳴見到景図』には下八幡(しもやはた)とあると紹介している。感覚的に上の八幡、下の八幡というの現地に行ってみれば理解できる。



 桶狭間の戦いのとき、19歳の松平元康(後の徳川家康)が大高城に兵糧入れを成功させたという話も城山八幡社のところで書いた。
 その翌年、松平元康がふたたび大高を訪れ、こちらの八幡社を参拝したという記録が残っている。



 現在の八幡社もそこそこの広さの境内があって立派な社殿が建っているのだけど、かつてはもっと広大な敷地を持っていた。すぐ北に隣接する大高小学校のグランドもかつては八幡社の境内地だった。緑区の中では氷上姉子神社に次ぐ規模の神社だったというから相当なものだ。
 今の本殿は昭和56年(1981年)に改築したもので、拝殿は平成13年(2001年)のものなのでまだ新しい。
 境内社に金刀比羅社と稲荷社があり、秋葉社はなかば独立した格好になっているから他から移したものかもしれない。
 境内の一角には奉安殿(ほうあんでん)がある。
 奉安殿といわれてもピンと来ない人が多いと思うけど、戦前教育で天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めるための建物のことだ。
 大高国民学校時代にあった奉安殿が平成9年に学校の運動場から掘り出されて、翌年修繕して八幡社で保管することになったということのようだ。今は学区資料保管庫として使われている。



 多くの神社がそうなのだけど、この神社も室町、戦国、江戸、明治、大正、昭和、平成と、いくつもの時代を生き延びてきたわけで、その間に起きた出来事や時代の移り変わりを思うと気が遠くなりそうだ。
 平成の次の時代、神社はどうなっていくのだろう。




作成日 2018.10.19(最終更新日 2019.4.4)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

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